2018年2月27日火曜日

アオジかな

   先日、けいはんな公園水景園に行ってきた。
 以前に書いたとおり、わが家で持て余した雛飾りを寄贈したのを飾っていただいている。
 ほんとうに「嫁に出した娘」の感覚だが、このように披露してもらえることはありがたい。


 外に出るとアオジらしき野鳥がいた。
 嬉しい。春は確実にやって来ている。
 悲しい。花粉症が怖い。情けない。
 

2018年2月26日月曜日

菜園自慢

   わが菜園自慢の写真を投稿する。
 写真はレタスである。
 「それにしては?」と感じられた方の感覚は正しい。チンチクリンである。
 これはほぼ毎日のようにやってくるヒヨドリのせいである。シロハラもいる。
 写真は一つだけをクローズアップしたが、これが凡そ10株ほどある。
 
 私は「人間が出来ている」からそういうヒヨドリに石を投げたりはしていないが、手をパチンと叩いてコラァーと毒づいている。
 キンカンも同様に喰われている。

 さてヒヨドリはグルマンではない田舎者である。
 証拠にはすぐ横のルッコラは全く喰われていない。
 だからレタスの方は野鳥の餌と割り切った。
 人間はルッコラを楽しむことにした。
 ルッコラの味が判らぬヒヨよ、ざまあみろ。
 悔しかったらルッコラを食べてみろ!

    害鳥と決めつける吾も凡夫かな

2018年2月25日日曜日

怠け者ほど勇ましい

   政治学の長澤高明氏を講師に、こじんまりとした憲法問題の学習会に参加した。

 一般に「改正回数が多い」と言われるドイツ憲法は(だから日本も改正せよという意見があるが)、ドイツでは日本でいえば普通の法律レベルの事柄が基本法(憲法)に書かれているからそうなるのであって、ドイツでも日本の憲法レベルの基本条項の改正は全くされていないとの話は新鮮だった。もっと勉強しなければと思った。
 
 また、「新法は旧法を破る」という法律論の大原則を知らない訳ではなかったが、日本ではこれまで新しい法律の制定に際しては矛盾したり抵触したりする旧法を真面目に改訂したり削除してきたので馴染みが薄かった。実際私もピンときていなかった。
 ところが例えばアメリカでは(旧条文削除等を怠って)大雑把に新法を作ってきたから、誰もが新法と合致しない旧法部分は問答無用で無効(失効)になるのは常識になっている。これはアメリカだけでなく法律論では本来常識に属することである。この辺の日本人一般での誤解や無知を思うとこの法律論の勉強も大事だとつくづく思った。

 単純にいえば9条2項の「戦力不保持」「交戦権否定」という旧法の上に「自衛隊の明記」という新法を被せれば、いうなれば「軍隊の認知」が新法になり、「戦力不保持」も「交戦権否定」も空文化されるわけで、「9条2項が残っているから何も変わらない」というのは詐欺師のペテンである。それを信じるのは無知である。

 そうして、講師の「外交とは勝ち負けではなく、リスクを最小限に抑えること。それが政治の役割だ」との意見にも大いに納得した。
 これまでこのブログでも「臆病な人間ほど勇ましい言葉をもてあそぶ」ことを指摘してきたが、生い立ちも境遇も違う他人(つまり外国)との外交は単純なはずはない。いろんな困難が山のように出てくるに違いない。が、それが外交というものであって、それを「対話のための対話はしない」というのは、究極の怠け者の外交論だろう。

 私は日本の右翼ほど平和ボケはいないのではないかと思う。
 軍事力、つまり戦争で平和を勝ち取るというその戦場はどこですか。そのとき貴方は何処にいて何をしているつもりですか。その戦争でどれくらいの人が死に、どれくらい国土が破壊されるのですか。説明できる者はいない。
 勇ましい言葉を並べる者は怠け者である。・・と講師は喝破された。

 どうしたら学校での銃乱射事件を防げるかの問いに・・・、
 「先生に銃を持たせろ」とトランプは本気で語った。ジョークではなかった。
 貴方はこれが正しい解決策だと思われますか。
 安倍首相は「トランプ大統領を全面的に支持する」と言っておられますが。

 私自身は、日本国憲法を理性的に読めば自衛隊は違憲の存在だと思うが、当面の現実の世界では防衛力は肯定されるべきだと考えている。
 しかし、今はそれを中心テーマとして議論すべきときではないと考えている。
 もっと言えば、現憲法の縛りのかかった自衛隊でいいではないかと考えている。
 大切なことは、非武装論者も、加憲論者も、学術的なその違いを横に置いて「安倍改憲を許さない」の一点で手を取り合うことだと私は発言した。

 リアルに考えよう。大統領が銃の所持が当たり前という国とも、バレンタインデー禁止の国とも、気を長くして付き合うというのが外交だろう。
 もう一度言う。勇ましい言葉を吐くものは怠け者である。

    春寒し銃持て教壇に立てという

2018年2月24日土曜日

アオバトとチョウゲンボウ

   NHKの「ニッポンの里山」という番組で「神奈川県大磯のアオバトの屋敷林」というのが何回か再放送されていて何回か見たことがある。
 ここのアオバトは大磯の海に半ば浸かって海水を飲みにくる。それをハヤブサが襲いに来る。
 どちらも珍しい映像だった。

 猛禽類というと、友人のひげ親父さんの高層マンションの家のベランダにチョウゲンボウが時々来るという。
 それを撮影したスナップが21日の新聞に掲載されていた。
 モノクロだが迫力のある眼力が掲載されていた。

   21日の記事でレンジャクを撮りに出かけたが全くと言っていいほどで出会えなかったと書いた。
 あとで聴くと、一日中待っていてボウズだった人もいるらしいから、一瞬でもカメラに収められたのはヨシとしなければならないかも。

 そのレンジャクを待っていたとき、なんとアオバトがやってきた(一番上の写真)。
 その日、私はレンジャクを狙っていたので「あっそう」という感じだったが、考えようによっては珍客で、普通にはこの写真1枚で満足すべきだろう。

 そして”そのアオバトを狙ってチョウゲンボウが!! というと「大磯のアオバト」映像になるのだが、実際は、ちょっと時間差でチョウゲンボウがやってきた。ハイタカかもしれないという人もいた。
 一番下の写真のとおり、やはり猛禽類は絵になる。

    カジノより老人鳥を追いかけよ

2018年2月23日金曜日

鶺鴒とイソップ寓話

 何回か書いてきたことだが、参考文献によると「ヨーロッパではスズメが人の手から餌を食べたりするが、これは日本のスズメとは種類の違うイエスズメである」「よってヨーロッパのイエスズメは人になつくが日本のスズメは人になつかない」とあるが、私は「日比谷公園松本楼周辺の日本のスズメは人の手から米粒を食べるから文献上定説とされていることは事実に相違する」と度々主張してきた。
 
   さて2月3日に不吉な鳥の代表トラツグミのことを書いたので、今日はバランス上、吉兆鳥の代表ハクセキレイのことを書く。
 鶺鴒(セキレイ)が何故吉兆鳥かということは日本書紀に書いてあるのでここでは割愛する。
 私が書くのは奈良公園の写真のセキレイである。

 それまでの印象でもセキレイはけっこう人を怖がらない鳥という印象はあった。
 それでも一定の距離に人が近づくと必ず飛び立つ野鳥であった。
 それが先日、奈良公園のベンチでおにぎりを食べていると、鹿ではなくこのセキレイが足もとにやってきた。
 そこで米粒を投げてやると、私の動作に一切逃げずに、ちょこちょこと寄って来てそれを食べ始めた。
 公園のドバト(これは野鳥のカテゴリーからは外されている)並みの親しさに驚いた。

 奈良公園は偉大なりである。
 実際誤解もあるようだが奈良公園の鹿はこれも野生動物である。
 つまり、古くからの神苑である奈良公園では野獣も野鳥もこうなるのだろう。
 
   そこでイソップ寓話の「北風と太陽」を連想した。
 物事に対して厳罰で臨む態度と、寛容的に対応する態度の対比を表す言葉として用いられ、教訓として、冷たく厳しい態度で人を動かそうとしても、かえって人は頑なになるが、暖かく優しい言葉を掛けたり、態度を示すことによって初めて人は自分から行動してくれるという組織行動学的な視点もうかがえる。(Wikipedia)

 組織行動学的にいえば、これが理解できない経営者は二流経営者となる。
 外交に携わる政治家は奈良公園の自然の中で学ぶべきではないだろうか。

    鶺鴒は情けを人におしえどり

2018年2月22日木曜日

兜太逝く

   先日、NHK全国俳句大会が放映されていて、中休みのような間に司会が季語について選者に振ったところ、夏井いつき先生が比較的柔軟に考えたいと言うのに対し、伝統俳句協会の坊城俊樹先生は「僕は季語に恋をしている。故に夏井先生は僕の恋人にはなり得ない」と述べて可笑しかった。
 ああ、ここに金子兜太先生がおられれば何と言っただろうかと想像した。
 如何にもNHK的な当たり障りのないご披露で終わっていた。

 私は兜太氏の「俳句入門」を持っているが、その最初の章のタイトルがそも「季語にこだわらない」である。
 念のために断れば、兜太氏の主張の力点は「率直に生活実感を!」にあり、季語を軽視せよと言っているものではない。
 それでもこのタイトルをトップに持って来たのには兜太氏の「生活実感」にこだわる信念が感じられる。
 昨年7月まで毎日毎日「平和の俳句」の選者を務められてきたのと同様の信念が感じられる。
 花鳥風月にはどうにも収まらない人間を詠まずして何の芸術か!と。(これは私の勝手な想像)

 氏は昨夏、東京新聞等の「平和の俳句」の選者を引かれた。
 そして、この1月からは朝日俳壇も、そもそも氏を含む4名の選者であったのが、紙面構成上も極めて歪な3名の選者によるものとなっていた。それは私を含む読者に不穏な想像を与えるに十分なものだった。
 事実、2月19日付け「朝日俳壇・朝日歌壇」にはこんな句や歌が掲載されていた。

    兜太選紙面に探す寒の朝 (横浜市)下島章寿
    冴え返れ兜太戦後を終はらすな (鹿児島市)青野迦葉
    「アベ政治を許さない」人病みたまうアベ政治なお続く厳冬 (水戸市)中原千絵子
    兜太選休みの月曜ものたりぬ木の芽ふくらむ春待遠し (倉吉市)谷本邦子
 もっと以前からこの傾向はあったが、最新の状況を摘んでみた。
 その翌日20日、氏は98歳の生を閉じられた。
 弔句をひねるのは止そう。揮毫に込めた意思をこそ継ごう。 

    薄氷(うすごおり)砕けよ墨書複写する

2018年2月21日水曜日

連雀(れんじゃく)

   先週用事のついでに奈良公園に寄ると超望遠レンズを付けたカメラマンに出会った。
 私が「すぐ先でイカルが鳴いていますよ」というと、「向こうにレンジャクが出ました」と教えてくれた。
 鳥好き人間同士の会話だ。

 早速教えてもらったところに行くとヒレンジャクにキレンジャクが混じって樹上に留まっていた。
 しかし私はスマホしか持っていなかった。念の為撮ってはみたものの「ただの小鳥」にしか見えなかった。

   そこで20日午前中、望遠レンズを引っ提げてリベンジを試みた。
 9時過ぎから12時まで、レンジャクは2羽が木のてっぺんに一瞬現われただけだった。
 世の中という奴はこういうものだ。

 午後から好きな歴史講義を受講した。来ていた友人のFさんが「うちの公園の池にオシドリが来ているよ」と言った。こういうものなのだ。
 写真の出来栄えも「もひとつ」だ。

     気まぐれなレンジャク暇な人が待つ

2018年2月20日火曜日

名のない蜜柑

   友人のOさんからOさんの郷里の蜜柑をいただいた。「名のない蜜柑」だそうだ。
 産地では、JAだか県だか知らないが、普通の温州ミカンでは発展性がないとかで、いろんな品種改良が試されているらしい。

 そして「ヨシこれでいこう」ということになった新しい種類の木が農家に配られ、各家の既存の木(根)に接木する。
 それを3年ほどして新しい品種だということで大々的に売り出すつもりだが、試験場と実際の果樹園(農家)にはいろんな違いがあり、そこまでしてみたが予想どおりにならなかったり、3年ほどしたらもっと良い品種が出てきたりということがあるのだそうだ。
 そうして、結局市場に出回らなかった、「市場の名前」がない蜜柑がこの世には幾つもあるという。

 写真の名無しさん、大きさはデコポンよりもまだ大きい。ジューシーである。難を言えば少し皮が剥きにくかった。
 ジューシーということは「甘~~い」好みの世間一般では「酸っぱい」になるのだろうか。
 ところで、わが孫の夏ちゃんは酸っぱい蜜柑類が大好きな蜜柑試験官である。
 夏ちゃんに言わせるとこの名無し蜜柑、まだ甘すぎる(もっと酸っぱいのが食べたい)らしいが、デコポンなどよりも気に入ったらしい。
 花柚子の実を食べるほど超個性的な試験官だから市場の役には立たないが、こんな美味しい蜜柑が名無しというのは可哀相だ。
 私はけっこう好きである。Oさんありがとう。
 「蜜柑が黄色くなると医者が青くなる」とよく母が言っていた。蜜柑のビタミンが体に良いという話。今は懐かしい。

     春庭に種吹き飛ばす蜜柑かな

2018年2月19日月曜日

早春 若ごぼう

   若ごぼう(葉ごぼう)は山菜(山野草)ではないけれど、極めて季節限定の野菜で、山菜並みに河内平野の早春の香りがする。
 なので、蕗のとうなどの山菜が好きなわが家では山菜級の扱いをしている。

 上の写真は若ごぼうが売られている形で、その束ねた形から「矢(やー)ごんぼ」ともいうとある。
 セロハンの印刷のとおり、大阪府八尾(やお)市の特産品である。
 そういえば八尾出身の「ひげ親父」さんは確かに「やーごんぼ」と言っていた。

 料理にしてから、息子ファミリーには「取りにおいで」とメールをしてお裾分けをした。娘ファミリーには19日に手渡す。

 先立つ数日前には妻が「若ごぼうが無かったから」といって蕗を買ってきた。
 蕗も旬だからこれも美味しくいただいた。
 「初物を食べると七十五日寿命が延びる」というから、これで5か月ほど長生きできたことになる。
 七十五日以内に次々と初物を食べれば不老長寿間違いない。
 ところが調べてみると、江戸で罪人(死刑囚)に「最後に好きなものを食べさせてやるから好きなものを言え」と言ったところ、全く旬でないもの(手に入らないもの)を言ったので旬が来て手に入るまで75日死刑執行が延びた故事によるという文があった。
 ほんとうかどうかは解らないが、これだと家庭や外食で「初物だ!」と喜ぶのは筋違いになる。

 ここは素朴に、比較的値段の高い初物の時期にそれを戴けた喜びと解しておこう。
 わが家では必ずと言ってよいほど初物のときは「これで七十五日長生きできる」と言い合ってから食事を戴いている。代々の習わしだ。

 蛇足ながら、若ごぼうの季語を調べると夏と出てきたので有名なスーパーでの去年のやりとりを思い出した。
 私が若ごぼうを尋ねたところ、普通のごぼうのところに案内された。
 「もしも~し、それは新ごぼうやがな」「新ごぼうと若ごぼうは全く別物でっせ」。
 歳時記の世界でも新ごぼうと若ごぼうの誤解があるのは残念だ。

     早春や七十五日伸ぶ若ごぼう

2018年2月18日日曜日

スマホなどのこと


 12日の記事の最後に「年長の孫はスマホを操って回転ずしのシステム語る」と短歌もどきを詠ってみた。

   その心は・・・先日、息子ファミリーが誘ってくれて久しぶりに回転ずしに行った折り、到着して直ぐに私が受付しようと走り始めたら息子から「スマホで予約済やで」と助言を受けた。ほんに受付前で待っていたら時間通りに案内された。そうかあ!

 テーブルに着くと回転寿司だからデモンストレーションのように回転はしているのだが、明らかにそのレールはサブであり、基本はタッチパネルで注文するようだった。そうかあ!

 このタッチパネルでいろんなメニューを探し出し、われわれの注文をサッサと処理してくれるのが年長組さんの孫の夏ちゃんだった。
 注文したものは、昔は何番テーブルというような紙を付けてレールに乗ってきたものだが、今は別の(2階の)レールで矢のように飛んできてテーブル横に停止する。そうかあ!

 その前に「注文の〇〇を送る」旨の表示がディスプレイに出て、それを取ったら「届いた」旨孫がタッチする。
 日本経済はデフレだが、回転ずしは長足の進歩を遂げていた。今頃そんなことに驚いているのは私が浦島太郎だったからだろう。

 スマホでは、夏ちゃんはお父さんのスマホに勝手にゲームをダウンロードして遊んでいる。無料のゲーム、無料のバージョンアップなどすべて心得ているらしい。

 妻が息子から、機種変更で「電話はできないスマホ」を貰った。
 ネット関係のことはできるので、ユーチューブ、写真、音声入力、ネットラジオ、QRコード、各種検索などをし始めて、私の知らない機能を私に解説し始めた。

 妻の姉の携帯の調子が悪くなったので、義姉は甥である私の息子のアドバイスでスマホに変えた。
 1~2日は「やり方がわからへん」などと妻とやりとりしていたが、すぐに写真の転送などもできるようになり、意欲的に習得に努めている。
 どちらかというとこの種のITは大の苦手としていたが、今では老後の趣味が増えたと喜んでいる。

 さて、友人たちと集まると圧倒的にはガラケーで、如何にITに馴染めないかという自慢話で盛り上がるが、『この社会』に安住していると停滞というか後退する感じがする。

 「老いては子に従え」との格言どおり、子どもたちに教えを乞うのが大切だ。
 妻が「文字入力するのに指の先が太すぎて上手くいかないが」というと、世の中にはそれ用のタッチペン(兼ボールペン)が山ほどあることを子が教えてくれた。写真の左がそれで、百均で購入した。
 私が「外出先でバッテリーが切れて困った」というと、「予備の充電用のバッテリーを用意しておくのが常識になっている」とこれも教えてくれた。写真の右のものである。ネットで購入した。

     絵文字すら使えず孫に嘲笑らわれて

2018年2月17日土曜日

風雨順時

   今年の年賀状にお水取り(東大寺二月堂修二会)を引いて風雨順時(季節が季節どおりに来ることを祈る)を祈念する旨を書いた。
 そのお水取りの前行が始まったことが新聞に報じられた。

 記事中では大導師が「修二会とは我々が安心して暮らしていけるように、季節が季節通りにやってくることを祈るものです」と話していた。

 東大寺のHPによると、『修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」と言う。十一面悔過とは、われわれが日常に犯しているさまざまな過ちを、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で懺悔(さんげ)することを意味する』とあり、先の記事中で大導師は『・・身近なところから、戦争や自然破壊まで「過ぎる」ということを悔いなければならない』と述べている。
 与党や「ゆ党」の政治家に聞かせてやりたいものである。

 大導師が前行に入られた同じ日(ただし現地時間では14日)、アメリカでは銃乱射で17人の高校生が死亡した。
 今年に入って45日ほど経ったがアメリカの学校での発砲事件は18件目だったらしい。
 それでも銃規制が進まない。銃という暴力を所持しない限り身は守れない、自衛はできない。銃のない平和な社会は理想主義のお花畑だというのだろうか。
 このフレーズどこかで聞いたことがある。核抑止力論だ。

 我々は警察権を除いて基本的に丸腰でも安心して暮らせる国を作ってきた。
 銃という暴力で安全が達成されるなら、アメリカは世界一安全な国になっていたはずだ。
 銃の無い国、その先に核兵器の禁止や、軍事よりも対話での外交解決を目指すのがそんなにおかしいことだろうか。
 私には、銃所持肯定も核抑止力論も遅れた思想にしか思えないのだが。
 地球上の人々に風雨順時を!

     十一面に悔過せよ対話せよ

2018年2月16日金曜日

探鳥日和

今週出会った鳥はポピュラーなものばかり。
① 雪の日のシロハラ。
 大型ツグミ類体長24㎝と書かれているからちょっとしたもの。
 キョロン~というような鳴声。
② 美しいがポピュラーなメジロ。
 「梅に鶯」の絵はほとんどがメジロ。
 誤解されるほどに美しい。
 腐ってしまったミカンを枝に刺しておくと突きに来る。
③ ありきたりの代表ヒヨ。
 姿も声もありきたり過ぎるが、外国からバードウォチングに来ると聞いて驚いた。
 わが家のキンカン泥棒。
 柿もたくさん被害にあうので、あまり好きではない。
③ カメラを見つめるカワラヒワ。
 キリリキリリ ビーンとけっこう綺麗な声で鳴く。
 飛んでいるときに翼に綺麗な黄色い透かしが入る。

④ ツグミが2枚、白眉がすごい。
 この背筋を伸ばした姿勢がいいのでどうしてもこういう写真になる。
 下の写真は顔が気に入った。
 胸の色や模様はけっこう個性がある。
 写真の2羽は別の個体。

2018年2月14日水曜日

間もなく卒園

   孫の夏ちゃんがもうすぐ卒園で、こども園最後の生活発表会があった。
 数年前まであれだけ天真爛漫だった夏ちゃんは、この頃とても恥ずかしがり屋で引っ込み思案になっている。
 これも成長の一つの表れかと納得するのだが、祖父ちゃんとしてはもっと弾けて欲しかった。
 と妻に話すと、息子も娘も生活発表会では同じようだったとのこと。そんなものらしい。

 生活発表会の劇の中で皆が遊んでいる場面があり、そのとき夏ちゃんがサッと逆上がりをしたので父母席からホーッという声があがっていた。ひいき目でカッコよかった。

 ただ事情で劇に参加できない園児も隅にいた。
 マイペースで成長しているもう一人の孫の凜ちゃんのことが頭をよぎって辛かった。
 いかんいかん、人生に平均だとか敗北などないんだ。
 ひとり一人のひとつ一つのそれが人生なんだ。
 今日は今日で夏ちゃんの立派な成長に拍手! よく頑張った。
 
    逆上がりして卒園の発表会

2018年2月13日火曜日

雪化粧の朝

   12日の朝はこの辺りでは珍しくサラサラの雪でうっすら雪化粧の朝だった。
 縁戚のいる金沢ではマイカーが全く使用できない厳しい日が続いているということだが、それに比べて長閑な感想で申し訳ないが、美しい休日の朝で気分がよかった。
 と、(この)老人ははしゃいでいるのだが、街には子どもたちのはしゃぐ声は聞こえない。いったいどうなっているんだ?

   子どもたちの声の代わりに、綺麗な声が聞こえてきた。
 世間では珍しくないが、私のフィールドでは珍しいホオジロだった。
 ホオジロはスズメによく似た地味な姿かたちよりも、さえずりの時期の聞きなしで有名だ。
 古くは「一筆啓上つかまつり候」で、その後は「源平ツツジ白ツツジ」、さらに最近は「札幌ラーメン味噌ラーメン」で、私も「札幌ラーメン味噌ラーメン」と聞きなしている。
 今回はそれほど高らかなさえずりではなかったが、地鳴きの範疇に入るのだろうが、一般にいう地鳴き以上に複雑で美しかった。

     頬白が春待つ声や雪の原 (季語が無茶苦茶ですか?)

2018年2月12日月曜日

伝統と建国記念の日

   答を先に言ってしまえば、日本文化の伝統を大事にする人は建国記念の日などという薄っぺらい物語に賛同してはならないと思う。

 本郷和人著『日本史のツボ』(文春文庫)が説いているとおり、日本文化の出発点であるヤマト王権が「自分たちは何者なのか」というアイデンティティを打ち出したのは、白村江の敗戦と唐による侵略の危機に直面した天智、そして天武、持統の時代である。
 具体的には神話に依拠した歴史書編纂だが、冷静に見つめれば同時に、国家の軸となる思想は仏教としていて、いわば神道と仏教を両輪にして国を治めようとしたのだった。

 では、天皇家では神道と仏教のどちらが重視されてきたか。本郷和人氏は「間違いなく仏教です」と言い切り、「単純な話、神官よりも僧侶の方が格段に位が高かった。さらに言えば、大喪の儀、天皇皇后の葬儀も聖武天皇から江戸末期までずーっと仏式で行われていた」と指摘している。
 つまり歴史を伝統を冷静に見れば、明治、大正、昭和前半の天皇制こそ後醍醐天皇同様日本文化と伝統の異端児だということだ。

 明治、大正、昭和前半の天皇制は、このように日本文化のあだ花であっただけでなく、アジアの庶民を蹂躙し、日本の庶民を大量に殺した戦争遂行の為政者だった。
 こういう事実を無視して、明治、大正、昭和前半の政治制度を日本の伝統などというのは全く事実に反する非学術的な意見であり、倫理的にも許されないものだ。

 そして重大なことは、そういう嘘を土台にして、戦前回帰の憲法改正が現実の日程にまで上っていることだ。
 日本の伝統を大切にしたい感情は、いわゆる保守も革新も同じだと思う。
 そして、嘘を土台にした主張は良くないというのも同じだと思う。
 細かな感情では十人十色であるのは当然として、嘘で固められた戦前回帰の憲法改正反対ではみんなで手を取り合いたいと思っている。

 私自身はけっこう神社も八百万の神々も好きである。
 しかしはっきり言うが、戦前の国家神道は日本文化の中でもあだ花だった。
 神を信じる者も、仏を信じる者も、そして信じない者も、手を取り合って伝統と日本文化を大事にしませんか。

 年長の孫はスマホを操って回転ずしのシステム語る

2018年2月11日日曜日

ルッコラは冬

   近くのスーパーでは「寒波がやってくるから買い溜めしておくよう」促すアナウンスがひっきりなしに流されている。
 事実、豪雪地帯では出荷も流通もストップしているところがある。

 ただ、ほんとうに庶民の生活を気遣ってくれているのか、ニュースをネタに不安を煽って買い物を強迫しているのか解らない。近畿中部で品切れは考え難い。
 なので、去年暮れあたりからの野菜高騰とダブって、あまりいい気分で私はこのアナウンスを聞いていない。

 今冬のわが家の半坪菜園は、ウスイエンドウ、各種サラダ水菜そして定番のルッコラ(ロケット)である。
 ウスイエンドウはただただ寒風に斃れてしまわないかと見守るだけの農作業?だが、ルッコラはどういう訳かわが家の土と相性がよく、根や土ごと友人に分けたものは巧く成長しなかったらしいが、わが家では雑草並みに成長する。それを、必要な都度葉っぱだけを摘むので、次から次へと一冬中楽しめる。そこが気に入っている。
 このルッコラ、通常は各種サラダに付け加えている。もちろんサラダ水菜も。
 
 ルッコラは何とも言えない苦みが大人の味で、いっぺんにサラダ全体をグレードアップしてくれる。
 この苦み=癖が苦手だという人もいるが、少し食べ慣れるとこの癖がタマラナイ。

 事実は小説よりも奇なりというが、このイタリアンの代表のような野菜が、普通の和風の鍋料理に合う。
 試しに入れてみたのだが、苦みはほとんどなくなり、彩りとしても鍋がよくなった。既成概念で生きていると人生はつまらない。
 葉物野菜高騰のこの冬は、実利的にもお世話になっている。考えようによっては贅沢な鍋である。

     アスパラは春ルッコラは季語になし

2018年2月10日土曜日

時にあらずと

   〽 谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず

 ウグイスであるかどうか自信がない。もしかしたら汚れたメジロかも。
 薮から突然出てきて、すぐに潜ってしまったから、飛び方等からしてメジロではないと思うのだが、顔や胸の白っぽいのが気にかかる。(300㎜)
 尾羽の立て方、体色、飛び方からしてウグイスに違いないだろう。

   2枚目はコゲラ。
 1枚目のウグイスを撮っていたら頭の上でギーッギーッ ココココココと撮ってくれ言わんばかりに樹を突いていたので撮ってあげた。

 金曜日は寒波の中休みのようであったので野鳥たちが賑やかだった。
 メモっておけば写真の外に、ヒヨ、メジロ、カワラヒワ、エナガ、シジュウカラ、ツグミ、シロハラ、イソヒヨドリといったところ。
 ルリビタキ、トラツグミは見つけられなかった。

  バードバス鵯(ひよ)思案する厚氷

2018年2月9日金曜日

春寒し

 大阪に出たついでにNHKに寄った。
 「JOBKというのはジャパン オオサカ バンバチョウ カド」というのは古い大阪の漫才の常套句。今は道路の西側に移転したので馬場町(バンバチョウ)でなく大手前になったのでこの漫才が若い人には判らないが、目の前の交差点は馬場町だから当たらずと雖も遠からず・・。
 現役時代はすぐ近くに勤めていたので、1階の売店も知っていた。
 なので「KIDS用のCDはどこですか?」と尋ねたら「それはネットで買ってください」と返ってきた。
 NHKにNHKのキャラクターのCDが置かれていない?? そういう時代になったんだと少しショックを受けた。

 寒波のピークだったがその分運動不足だったので、すごすごと所用のあった場所まで歩いて行った。
 腐っても鯛と言ったら失礼だが、大阪中心部は大きな建設工事も進行していた。
 ここにはあんな店があったはずだが・・などと考えながら自分から遠く離れた大阪の街を街角ウォッチングで散歩した。

 春寒し通いし街の変わりよう

 来週は旧正月である。
 先日のNHK周辺(大阪城の前)でも外国人観光客が多かったが、来週、関空直結のミナミはおもいっきり混むことだろう。
 わが行動範囲の奈良公園で馴染んでいるから驚かないが、インバウンド効果を手放しで喜んでいても大丈夫なのだろうか。

 旧正や大阪は大阪弁ならず

2018年2月8日木曜日

フェイクニュース

 フェイクニュースとは文字どおり嘘のニュースであるから、良識ある市民は「私には無縁だ」と気にもかけていないだろう。
 イギリスのEU離脱国民投票やアメリカの大統領選挙で大きな影響を与えたというニュースは知っていてもそうだと思う。
 しかし、世の中を悪くしないためには、世の中をよくしようとするなら、日本を含む世界中で起っている事実を事実としてリアルに見つめる眼が必要な気がする。


 日本郵便株式会社勤務で郵政産業労働者ユニオン組合員と思われる坂井 貴司氏(佐賀県武雄市)のフェースブックに次のような投稿があった。この投稿自体が真実かフェークかということも含めて、一読の上で考えていただきたい。以下引用

 24日の沖縄県名護市の市長選挙の結果のおかげで、私は眠れない夜を過ごしました。
 今夜も腹が立って眠れない夜になりそうです。 
 一風呂入ってサッパリしようと、スーパー銭湯に入りました。
 風呂から上がって脱衣所でゆっくりしていた時です。
 60歳代の男が、大きな声で仲間と思わしき人々に話しました。
 「この前の名護市の市長選挙の結果こそ、沖縄の民意だよ。沖縄県民は米軍基地を必要としている。
 名護市民は早くから辺野古に米軍の新しい基地を建設してくれと何度も米軍や政府に陳情していた。それが普天間基地の移転ということで実現することになった。
 悲願が達成できた!と喜んでいた所へ、共産党や社民党、本土から押しかけた極左過激派が、横やりを入れた。連中は自分たちが名護市民を代表すると称して、勝手に反対運動を起こした。それに資金を提供したのが、中国と北朝鮮だ。辺野古に基地ができると、沖縄を侵略するのが難しくなるからだ。
 辺野古で座り込みをしているのは、日当2万円で雇われたアルバイトや、小遣い稼ぎが目当ての年寄りだ。生活保護を受けている奴も多い。それも皆、本土から連れてきた連中だ。朝鮮人や中国人もいる。名護市民は一人もいない。それを琉球新報や沖縄タイムスなど、中国人が経営している新聞はあたかも名護市民、沖縄県民であるかのように嘘を書いている。本当のことは八重山日報と産経新聞しか書かない。
 東京MXテレビの「ニュース女子」は事実を報じた。それを嘘だと左翼は騒いでいる。嘘をついているのは、奴らのほうだ。
 名護市民は市長選挙で、そのような厄介者を追い出す決意を表明した。これで名護市は正常化される。名護市民は良識を発揮したよ。
 あとは、偽日本人の翁長を追い出すことだ。
 まあ、今回の選挙で私は沖縄県民を見直したよ。ギリギリのところで真実に目覚めたんだ。やはり日本人だよ」
 それを周りは「ごもっとも、ごもっとも」と相づちを打ちながら聞いていました。
 「沖縄には私の親戚がいます。親戚に聞いたら、『座り込みをしているのは、暇つぶしのジジイやババアどもばかりだ。それで一日二万円がもらえるから、うらやましい』と言いました」
 「それが本当だよ」
と一同大笑いしました。
 風呂上りのサッパリした気分が吹き飛んだ私は、はらわたが煮えくりかえる思いで聞いていました。
 「私は辺野古の座り込みに参加しました。費用は全部自分持ちでした。日当なんて一円も出ていませんよ。それに参加者の大部分は沖縄県民でした!」
と怒鳴りつけたい気持ちを我慢して、私はその男性に笑顔で声をかけました。
 「へえ、沖縄に関心があるのですね。名護市には行かれたことはありますか?」
 「いや、だいぶ前に那覇へ観光に行ったくらいだな。名護には行ったことはない」
 「でも、名護市の状況には詳しいですね」
 「ああ、このまとめサイトに詳しく書いてあるからね。マスコミは嘘しか言わないから、これで沖縄のことを知っている。ここに本当のことが書いてあるよ」
とスマホを出しました。
 それはネット上に無数にある沖縄ヘイトのサイトでした。デタラメと歪曲に満ちた「沖縄の真実」が掲載されています。
 「まあ、便利な時代になったよ。マスコミが言わない真実を知ることができるからね」
と男性は笑顔で言いました。
 嘘とデマで固めた沖縄ヘイトが蔓延している状況を私はリアルで見ました。
 以上引用おわり

 先日妻が息子から聞いた話だというには、若い職員が「新聞ってどう読むんですか?」と聞いてきたという。
 伝聞だから詳しくは解らないが、今の若い人たちが新聞を読まず、スマホの情報で全てを済ませている様子はよくわかる。
 そのスマホの情報(まとめサイト)が実際にはこんな様らしい。

 馬鹿々々しい事柄を汚い言葉で書きこんだサイトなど見たくもないし事実見ていないが、「あんなもの見る気もせん」だけで済むだろうかというちょっとした後悔がある。
 いちいち対応する気はないが、SNSの世界で、真面目な意見、良識的な意見がフェイクニュースを圧倒するように夢見ている。

2018年2月7日水曜日

よろしゅうおあがり

 内田樹氏のブログの記事に『街場の文体論』韓国語版序文というのがあった。
 世界中で「グローバル化」といって英語が支配的な言語になりつつあり、母語(日本であれば日本語)が痩せ細っている。そういう言語政策を推進している人々が言語を「道具」だと思っているのが大間違いで、『僕たちは言葉で造られている』のだ。フィリピンの大学の先生は、「英語で話せることは実利的だが母語では話せないことは悲劇的だ。なぜなら、このような言語環境に置かれている限り、フィリピン起源の政治理論や芸術運動が出現する可能性が絶望的に低いからだ」と嘆いている等々刺激的な指摘が多かった。
 以上は前説(まえせつ)。

 昨日の記事にひげ親父さんから、『毎日歌壇に「なまはげの少し無理ある訛りかな」というのがありました』というコメントをいただいて、方言=母語について少し考えた。
 少し以前のケンミンショーで京都の杉本彩さんと大阪の西川きよしさんが関西弁の「よろしゅうおあがり」について語っていた。
 私の聞き間違いでなければ、二人は食事のとき、関西では「いただきます」に対してホスト側が「よろしゅうおあがり」というと説明していて、私は「それではポチに対するヨシやないか」とテレビのこっちでツッコんだ。
 両氏の説明は、綺麗にいえば「よろしくおあがりください」と食事を提供するのだという説明だが、それではポチに対して、「お預け」「ワン」「ヨシ」で・・・、「いただきます」が「ワン」で「よろしゅうおあがり」が「ヨシ」になる。

 あえて「正解」というが、「正解」は「ごちそうさまでした」に対して「よろしゅうおあがり」と答えるので、「よろしくお召し上がりいただいてありがとうございました」の感じである。(ことほど左様にテレビは信用ならぬことが多い)
 前者と後者の感覚の違いは解っていただけると思う。
 前説に引き戻して言えば、「これが上方文化」だと思う。
 わが家では結構使いこんでいた言葉だが、巣立ちして久しい息子や娘には十分浸透していない。それぞれの配偶者は関西圏外出身だからなおさらだ。
 なのでファミリーで食事会をしたときには妻が息子や娘に「そういううんやで」と再教育をしている。

 言語を含め伝統などについて、我々の世代と子の世代あたりは後世の歴史家が嘆くような断絶の世代になりかねない。
 そんなことも考えて、節分の夜には老夫婦二人で大きな声で外に向かって豆を撒いた。
 近所の人は「きっとお孫さんが来て撒いてはるのやろう」と善意?に理解されているだろうが、実は夫婦二人だけだった。

     立春や鳩の歩ける音がして

2018年2月6日火曜日

鬼退治はこれから

 歴史的に見れば、鬼と言われるものの中には、権力者の意に沿わぬ者、まつろわぬ民が含まれていないかということはこれまでにこのブログで書いてきたが、言葉のあやではないが、そう、単なるレッテル貼りで喜ぶ気はないが、現代社会の鬼と言えば権力者そのものが民の幸せを奪っている鬼だと思う。そういう鬼退治には正義がある。
 そういう気持ちを込めて、先日の友人のお寺で行った節分会の報告をする。

   最初に勤行を行なった。
 住職は全員にお経とその解説を配付した。
 そういう対応は正しい聖職者のあり方だと私は感心した。
 先日から私は並川孝儀著「ブッダたちの仏教」(ちくま新書)を読んでいるが、経典を歴史的に見る目が非常に重要だと感じている。

   そのあとで、ある種の宗教劇・・というほど大したものではないが、鬼の威張っている世は正義の力で終わるであろうという・・予祝行事を行った。
 太鼓の音も不穏な中、赤鬼が乱暴を働くも遂には正義の前に平伏すというシナリオだったが皆んな判ってくれたかな?

   今年は全てが試作であったから、来年は誰かに代わってもらおう。
 最後はゴキブリがシューッとされたときのようにヒクヒクとしたのだが、照れずにしてくれるだろうか。してくれるに違いない。
 「来年はやらしてくれ」という申し出を期待。

   アンコールに応えて道路上でも踊ってみたが、最初は子どもたちが気味悪がって逃げ腰だった。
 しかし、交通整理係の友人が上手く誘ってくれたので、路上でも楽しい豆撒きになった。
 写真は、鬼が子どもたちを虐めているように見えるが決してそんなことはなかった。

   最後の写真は、厄除け善哉と大根炊き、そしてあぶり餅。子どもたちもフーフー。
 ふた昔?前には節分の日に道行く人々に善哉を振る舞う風景が珍しくなかった。
 そのぜんざいに厄を持って行ってもらうというような俗信だった。
 それを信ずれば、今回この行事を手伝った皆んなが厄を落としたことになるから、バンザ~イ、バンザ~イ。

2018年2月5日月曜日

リアリストは誰だ

茅ヶ崎市立小学校
   先日に続いてリアリズムということを考えたい。
 昭和16年1月に岡田菊三郎陸軍戦備課長が東条に「米日の国力は10対1」と報告したが、軍は無理やり希望的諸条件を無茶苦茶に付けて5対1と誤魔化し、東条は「そのくらいは精神力で挽回できる」として開戦した。
 こうして徹底したリアリズムの軽視、精神主義が帝国軍隊の侵略、加害、被害を生んでいった。

 その昭和16年、山田耕筰作曲大木惇夫作詞の歌謡「なんだ、空襲」は「最初一秒ぬれむしろ かけてかぶせて砂で消す 見ろよ早技(はやわざ)どンなもンだ、もんだ」「なにがなんだ空襲が 負けてたまるか、どんとやるぞ」というものであった。
 実際に「焼夷弾はハタキで消せ、スコップで屋外に投げ出せ、消さずに逃げるのは犯罪だ」と命令されていたし、この調子は原爆投下後も「新型爆弾は初期消火せよ。頑丈な壕は直下で平気」と新聞(8月9日朝日)を通じて国民に指示がされていた。これが70数年前の日本の常識だった。

 当時のマスコミは「アメリカ人はガムを噛んでダンスをしているだけの民族だから皇国精神にあふれる日本男児が負けるわけがない」、『レディーファーストの国だから奥さんが「あんた、戦争なんか行っちゃダメ」と言うと戦争なんかできるはずがない』と繰り返し、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」=生意気な中国を懲らしめろと煽った。

   昨年から各地でJアラートの避難訓練というものが行われている。
 テレビの画面では市役所で職員が机の下に屈みこんでいた。小学生たちは輪になって頭を覆っていた。
 この国は70数年前に先祖返りしたのだろうか。
 これを見て立派な実践的な訓練だと感じたとしたら、冷静に見てその方は「お花畑的空想家」ではないか。
 なので1月23日に「軍事ジャーナリストのリアリズム」を書いたが、ミサイル迎撃態勢について再度述べる。

 日本には弾道ミサイル防衛能力(BMD)を持つイージス艦が4隻あり、うち2隻が通常日本海にいる。
 イージス艦には迎撃用ミサイルSM3が各8発搭載され、撃ち洩らさない様一度に相手のミサイル1発に対して2発発射する。全弾命中しても1隻で4発の相手ミサイル対応、日本海の2隻で計8発対応で任務終了となる。

 イージス艦が撃ち洩らしたミサイルは短射程(射程20キロ弱)のパトリオットPAC3で迎撃することとなっている。
 PAC3は2基1セットなので32基16セット配備されている。
 16セットのうち5セットは首都圏に、2セットはアメリカ本土向けのコースの函館周辺に、4セットはグアムコースの中四国に現在のところ配備されている。
 掲載した地図のとおり、幸か不幸か近畿と中部は丸裸である。仮に滋賀の饗庭野基地に配備されたとしても半径20キロ弱ではタモ網で野鳥を捕ろうとするようなもので、京阪神に向かうミサイルからは近畿、中部は守れない。
 PAC3は自走発射機に4発ずつ入れ1セットで一度に2発発射する。1セットで相手のミサイル4発に対応すると任務終了となる。

 そもそもこれらの想定が「飛んできたピストルの弾をピストルの弾で撃ち落とすのと同じだ」という質的な問題を脇に置いても、これで200乃至300発はあるといわれる「ノドン」、30発はあると言われる核弾頭を封じるというのだから軍事ジャーナリストがこんなものは「儀仗隊」のようなものだというのが当っている。

 「北朝鮮の核やミサイルが心配だ」という多くの国民も、だから「やってしまえ」と言う前に以上の事実をリアルに確認してほしい。
 中学校の不良グループどおしが虚勢を張って脅し合っているのではない。
 北朝鮮の軍事挑発を止めさせようと真剣に考えているのは安倍政権ではないと私は考えている。
 ほんとうに軍事力を増強すれば平和が来るのか、北の核やミサイルを一瞬にしてほんとうに迎撃できるのか、「そのようにしたい」という人も一度立ち止まって冷静に議論しないか。

 中学校の社会科で戦争の陰に死の商人ありと習ったが、2023年に陸上に配備予定の迎撃システム、イージス・アショアは1基1000億円×2基とか4基とか。
 そのミサイル、1月31日米軍はハワイ沖の実験で去年に続いて再び迎撃に失敗したと発表した。
 そしてトランプは、小型の核爆弾で先制攻撃する準備を本格化し始めた。
 安倍首相は平昌五輪の際に文大統領に米韓軍事演習をけしかけると報じている。
 ああ、ほんとうに冷静に議論しませんか。

 マスコミは売れるようにと記事を書くあのリアリズムをいつか忘れん

2018年2月4日日曜日

立春

 昨日は節分だった。友人のお寺の節分会の実行委員のようなものになったが、渦中に入ると行事が成功したのか失敗したのかもよくはわからない。
 お世辞かもしれないが皆が「よかったよ」と言ってくれたから、素直に喜んでおこう。

 私は赤鬼になった。
 私の頭の中のシナリオでは仏前でひと暴れして住職の読経で悔悛するという宗教劇のつもりだったが、「道に出てきて暴れろ」というアンコールがあったので路上でパフォーマンスをしたところ、子どもが「鬼は外」と言って私に豆をぶつけに来たから、考えようによっては大成功だったかもしれない。

 友人たちが手分けして担当した善哉、大根炊き、あぶり餅も美味しくて近所の方々の評判も良かった。
 節分でいえば、この歳になって初めて主催者側になった。楽しい1日だった。

   今日2018年2月4日は立春で、二十四節気・七十二候の起算日・第一目である。
 このことから今日が旧暦1月1日だという誤解があるが、旧暦は太陰太陽暦なので月の1日は必ず朔である。4日前に満月で皆既月食があったからそれが誤解であることは直に察せられると思う(多くの元大晦日の行事が節分に引き継がれていることも誤解の遠因になっている)。

 二十四節気でいうと冬至、小寒、大寒、立春と、立春は冬至から数えて3番目の節気だから*365日×3/24=*45.6日となるから、立春は冬至から数えて45~46日目となる。

 天文学では太陽黄経315度の時(世間一般ではその日)が立春だから、これは春分が黄経0度=360度なので春分から起算した二十四節気中の21番目で、360度×21/24=315度となっている。

 二十四節気 七十二候は中国大陸北部の気候を基としているから日本の自然と合わないといわれたりするが、事実、今年もまだまだ大寒波が予報されているが、それでも、陽の光、日の入の時刻、樹々の蕾の膨らみなどを見ると「確かに春が立った」と納得できる。

 とはいっても「春は名のみの風の寒さ」であるから、俳句の季語と感覚のずれには大いに悩む。「俳句とはそういうルールで作るものなのだ」という意見も知っているがわだかまりは残っている。

     老妻も口を揃えて福は~内

     早春賦口ずさみたし雪の雲


2018年2月3日土曜日

鵺(ぬえ)が出た

   昔から節分の日には都に百鬼夜行が出たという。
 物の怪(もののけ)というと平家物語の鵺(ぬえ)が有名だが、時代劇の怖ろしい夜の場面などではヒー~~ヒー~~という気味悪いその声が必ず登場する。

 さて、節分前日に我が街に鵺(ぬえ)が出た。ヒー~~ヒー~~の声の主、トラツグミである。
 ツグミの中でも二回りほど大きく貫禄があるから発見したときには感動したが、「トラツグミが啼いているのを見ると近い将来死ぬ」とか言われているから、啼いていなくてよかった。

 各地のことわざの中には、鵺が啼くと誰かが死ぬ(愛知)、春先に鵺が啼くと死人が出る(愛媛)、鵺が棺を背負っているのを見ると死ぬ、屋敷の中で啼くとその家の者が必ず死ぬ、シイと啼くときは人が死に ヒイと啼くときは火事が出る・・などがある。
 別名にも、鬼つぐみ、棺鳥、地獄鳥、念仏鳥、幽霊鳥、冥土鳥というように不吉なものばかりだ。

 一人で部屋の電気を消してトラツグミの声をyoutubeで聴いてもらいたい。
 それでも気味悪くなかったら、貴方の精神は極めて健康か、あるいは感受性が大いに鈍っているかのどちらかだろう。

 「選りにもよって節分の前日に出てくるか!と気が塞いだ」というのは真っ赤な嘘で、私は20数年ぶりで撮影に成功してルンルンである。
 この辺りでは珍鳥中の珍鳥だ。

     節分やお化けの出番と鬼つぐみ

2018年2月2日金曜日

9条のリアリズム

 日本国際ボランティアセンター(JVC)という団体がある。団体のHPから紹介すると・・、
 インドシナ難民の救援を機に1980年に設立。
 現在アジア・アフリカ・中東、そして東日本大震災被災地で支援活動を行っている。
 農業の研修などを通して農村の暮らしを支える「地域開発」、紛争地での医療支援などを通して人々の命を守る「人道支援」、そして現場の声をもとに政府や国際社会に働きかける「政策提言」が活動の柱らしい。
 受賞歴を見ると・・、
 1985  アフリカ被災民救援活動貢献についての感謝状 (外務大臣)
 1988  国際協力推進についての感謝状 (外務大臣)
 1988  東京弁護士会人権賞 (東京弁護士会)
 1989  朝日社会福祉賞 (朝日新聞社)
 1992  毎日国際交流賞 (毎日新聞社)
 1995  内閣総理大臣賞 (内閣総理大臣)
 2012  旭日小綬章 星野 昌子(個人として受章)
 2015  日本平和学会 平和賞
・・というから、「知っている人は知っている」という以上のしっかりした団体と言ってよいだろう。
 このJVC代表理事の谷山博史氏のインタビュー記事が1月24日の赤旗に大きく載っていて、紛争地の現場で活動を続けられてきたリアルな感想に胸が揺り動かされた。

   そのひとつが「非戦の精神」で、欧米の国際NGOの多くが戦争そのものには反対しない。赤十字国際委員会ですら戦争の仕方に反対しているだけという。
 そんな中で、日本のNGOだけが「非戦」を訴えていて、そのバックボーンが憲法9条と言い『「非戦なんて現実無視のお花畑だ」という人がいるが、ほんとうに人を殺すとはどういうことなのかも知らずにそういうことを言うことの方が非現実的だ』と谷山氏は述べている。

 氏自身がそれを確信したのはアフガニスタンのスタッフとの出会いで、暴力と復讐の連鎖から抜け出せない現地では武器の所持も当たり前であったが、氏が初めて米軍と交渉した場に立ち会ったスタッフは「殺されるんじゃないかとほんとうに怖かった」と後で述べたという。
 そういう恐怖があるから一気にテロに走るのだが、それが、交渉や対話で問題を解決する方法があると知ったスタッフは生まれ変わったように一族や地域に平和教育を広め、銃のおもちゃを禁止する運動などを始めたからだという。

 世界はどこを見ても問題だらけに見えるが、恨みと復讐、分断を生む負の関係を断ち切らない限り希望は生まれない。
 紛争地現地の当事者が「これじゃだめだ」と動いた信念に私は確信を持ちたい。

   対話見て生まれ変わったアフガンの現地スタッフの事実の重さ

2018年2月1日木曜日

ムーミンの国は?

   先日の大学入試センター試験地理Bで難問過ぎると話題になっている問題が写真の問題だ。

 スウェーデン語の例示があってその下にあるアニメと言語からフィンランドに関するものを選べという。
 18歳のときの自分なら悩んだかもしれない。

 それを古稀を過ぎて語る不公平を許して貰うなら、「バイキングはノルウェーかフィンランドか」と問われれば「ノルウェー」と答えたい。

 言語ではノルウェー語もフィンランド語も知らないが、フィンランド人がフン族(匈奴)の後裔であるという俗説は知っているし、故に主としてインドヨーロッパ語族のヨーロッパにあって少数派のウラル語族ということを知っている。
 そこで問題を見ると、Aは明らかに例題のスウェーデン語と似通っているが、Bは大きく異なっていると見えるから、きっとBだろう。

 古稀過ぎの私にしてみれば、ムーミンもビッケもほとんど知らないが、答はタBということになる。

 試験後は「ムーミンはノルウェーと信じ込んでいた」だとか、「ノルウェーにも森と湖はある」というような批判があったり、反対に「イラストのトナカイがクリスマスプレゼントを持っているからフィンランド」という解説があったりした。

 これで人生が狂ったように思った受験生もいたかもしれないが、私としては決まりきった暗記物でなく、一ひねりした問題には好感が持てた。年寄がクロスワードパズルを楽しんでいるような無責任な感想で申し訳ない。

     赤鬼の演習終えし睦月尽孫がええよと合格通知