2013年11月30日土曜日

あす御堂筋パレード

作成中のポテッカー
  秘密保護法の審議状況を見ていると、ありきたりの言葉かもしれないが、民主主義の危機だと感じる。
 同時に、従来の組織や政党の枠を超えた連帯が広がっていることは、未来の展望を照らしている。
 大阪でも、明日12月1日午後1時半から中之島の女神像前で集会が開かれ、御堂筋を難波までパレードすることになった。
 呼びかけたのは、大阪憲法会議、おおさか女性9条の会、大阪宗教者9条ネットワーク、憲法9条の会関西、憲法を生かす会大阪、護憲大阪の会、しないさせない!戦争協力関西ネットワーク、とめよう改憲!おおさかネットワーク、大阪弁護士9条の会である。
 この情報を得て私も一市民として参加しようと思う。
 民主主義は指示や動員で守るものでなく、自発的意思の連帯こそが力になるはずだと思うからである。
 これから、ポスターのようなプラカードを作るつもりだ。
 参加者が、パレードに相応しい工夫を持ち寄れば世論を替えるに違いない。
 今朝の朝日新聞の「声」欄に創価学会員が公明党に強い批判を行っていた。
 現に世論は大きくうねっていると思う。

2013年11月29日金曜日

三輪山登拝

三輪山から見る畝傍山、耳成山
  大神神社(おおみわじんじゃ)には本殿がなく拝殿だけだということは有名なことで、拝殿の先の「三ツ鳥居」の奥のお山(三輪山)がご神体である。
 この形は縄文の信仰にも通じる古式で、日本国中に大きな神社は数々あるが、そういう意味では伊勢神宮をしのぎ、日本で一番古い神社と言えよう。
 神の名は大物主神で、端折って言えば大国主神であり、天孫の天皇族に国を譲った先の大王である。

 歴史を学ぶ人々とともに、そのご身体のお山の頂上にある奥津磐座(おきついわくら)まで、「参拝証」の襷(たすき)を首にかけて登拝してきた。登山ではなく登拝である。
 だいぶ以前にも登拝したことはあるのだが何十年も前のことである。自信以前に心配が先立つ。
 標高は467.1mではあるが「直登」に近い。
 それに心房細動の発作の経験のある身には、息の上がる辛さと同時に恐怖感が頭をもたげる。
 その横を裸足で登られる信仰の女性が追い抜いて行かれるが、その女性の深刻な思いにまで心を巡らせる余裕はこちらにはない。
 下山まで3時間弱であったが、脱落しなかったことにホッとするとともに、体力の低下をしみじみと実感した登拝であった。
 いっしょに参加した職場の先輩は、登る途中早々に気分が悪くなってリタイアされた。紙一重だった。
 登拝口の摂社・狭井(さい)神社の万病に効くという薬井戸の聖水を飲んで生き返ったが膝の笑いは止まらない。

  歴史講座であるから、三輪の信仰、記紀神話、出土品、考古学的遺跡、神宝、建築様式、大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ・実は廃仏毀釈で廃止された大御輪寺だいごりんじ)等々豊富な話を学んだのもよかった。
 ちなみに、大物主の子孫の大田田根子が茅渟縣の陶邑(ちぬのあがたのすえむら)、現堺市の百済系の渡来集団に居た(書紀)というのも興味深い。また、大御輪寺の本尊は現在聖林寺にある、かの有名な国宝十一面観音像である。
 翡翠の子持勾玉のお守りを求めて、快い疲労感と知識の満腹感に気分よく帰ってきた。
 2日後にふくらはぎが悲鳴をあげたが、孫守に忙しくしているうちに忘れてしまった。
 孫守は薬の神様狭井神社以上に霊験あらたかであると言ったら失礼か。

2013年11月27日水曜日

知らないことは罪では?

共産・民主・生活・社民が反対、
自民・公明・みんなが賛成、維新が退場
  秘密保護法案が衆議院を通過した。
 通説に言う「由らしむべし知らしむべからず」で、民がお上のことを知ろうとすること自体を罪とする、前世紀の悪法が化けて出たものだ。(通説は論語の誤用とも言われているが)
 それ故に、歴史的と言っても過言でないような広範な人々から反対の声が上がっている。
 マスコミも遅ればせながら「懸念」を表明している。
 ところが、その中でテレビ、とりわけNHKの反応の悪さが特徴的だ。露骨な経営委員の恣意的任命が見事に効いている。
 これもあまりにワンパターンなのだが、テレビのニュースは法案通過と併せて『街の声』なるものを放映している。
 賛否をほぼ半々にして、「知らない」「判らない」という声でお茶を濁している。
 この声はマスコミが製作した街の声ではあるが、その原材料たる「知らない」「判らない」の声があるのも事実だろう。
 しかし、犯罪者が犯罪を犯している場に居たのに「知らなかった」人というのは、『事情を知らされなかった被害者』なのだろうか。
 この国に原発が造られていったとき、多くの庶民はその危険性を知らなかった。
 そして、フクシマの事故が発生した。
 「私は知らなかった」から責任はないのだろうか。
 あえて言いたいが、未だに帰る目途のない避難者たちに対して、「知らなかったから何もしなかった」人々は反省しなくていいのだろうか。
 百歩譲って、フクシマ以前ならいざ知らず、あの経験を共有したこの国で、テレビの向こうで「知らない」「判らない」という言葉を被害者然として語り、旧態依然とそのような波長で報道する現状にあえて異議申請を行いたい。
 「知らないことは罪ではないですか」と。
 私は「総ざんげ」のようなことを言いたいのではない。
 かつて大宅壮一氏は「テレビは1億総国民を白痴化する」と言ったが、「知らない」「判らない」という言葉を恥ずかしげもなく語る人をノーマルな庶民のように描き、結果として体制にすり寄るマスコミを「テレビというものはそんなものだ」というように達観したように語るのを止めないかと、私は言いたい。
 国会会期末まで、廃案目指して努力したいと思っている。

2013年11月25日月曜日

里の秋

  主に列島の東西で、囲炉裏文化圏と掘り炬燵文化圏に分かれていると書いてある本が少なくない.
 しかし、関西の中の関西である奈良県の吉野地方にも囲炉裏があるから、これについては、単純にはよく言われる列島の東西の文化の違いではなさそうだ。
  いずれにしても、関西の平野部に囲炉裏は少ないのは明らかであったから、私にはまったく馴染みが薄かった。
  だから、ほんとうに小さい頃は「里の秋」を聞いて、『囲炉裏というのは栗の実に似た形をしているのだ』と思っていた。♪栗の実似てます囲炉裏端だと。

  先日、老人施設の歌の行事のお手伝いをした。
  私の狭い経験から見ると、男性の入居者の多くは脳梗塞・脳出血の後遺障害のある方が少なくないように思う。
  そんな先輩方と、最後は『みんなで歌おう』になって、その中に『里の秋』が入っていた。
  私は、左右の方々に歌集を配り、その部分を指で示しながら誘うように歌を歌った。
  言葉の不自由な男性にも心の中で歌ってもらおうと、顔を見ながら歌ったが、その先輩が歌詞を追いながらくしゃくしゃに涙ぐまれたので、私は声が詰まって歌えなくなった。
  きっと、心の中で『里の秋』(ああ母さんとただ二人~)を歌いながら幼い日を回想されたことだろう。

 さて、私の知っている老人施設の入居者の比率で言えば圧倒的に女性である。男性は入居以前に浮世をリタイヤされているのだろう。平均寿命の性差は歴然だ。
 だからかもしれないが、この日一番声の出ていたのは『ここに幸あり』だった。

 どういうわけか老人施設を訪れるボランティアの方々は『故郷』だとか『里の秋』だとかを歌いたがる。「おばあちゃん! お父さんやお母さんが懐かしいねえ」と言わんばかりで、私はあまり好きではない。私が介護される未来を想像してみてそう思うのである。ただ、感想文などでは「故郷や里の秋がよかった」という家族の方(女性)が多い。
 このように、私の意見は少数意見でみんなに笑われているが、「老人施設で一番の音楽療法は恋の歌である!」と本気で信じている。ご同輩には共感していただけるだろう。

 ただ冷静に考えてみると、これはお婆さんが素直なだけであって、爺さんというのは、ボロボロになってもエエカッコをしたがるというだけのことかもしれない。

2013年11月23日土曜日

マロングラッセを作る

   マロングラッセを作ろうとしていて、最後の水分を蒸発させる段階を「ちょっと頼むわ」と妻に代わってもらったら、栗きんとんのように潰されてしまった。あ~あ、以心伝心で分かり合えていた時代は遠い過去。
  気を取り直して友人たちと会う場所に持っていき、「グラッセのつもりで作り始めたがきんとんになったわ」と食べてもらった。
 誰も「色が汚い」等のケチを付けずに食べてくれた。
 少しだけ小難しい議論をしながらだったので、「ちょっと味がおかしいな」とは皆んな言いそびれていたのだろう。
  実はこの「グラッセきんとん」、・・・1か月半、毎日毎日手を掛けた、語るも涙の特製中の特製品なのである。

  10月12日の「秋」という記事の最後に「私は食べようかどうか迷っている」と書いたのが、そもそもの始まりだった。
  ズバリ、材料はクヌギのドングリなのだ。
  調べてみると、クヌギはドングリの中でも一番アクが強く食用に適しない部類に分類されていた。
  しかし、地球規模で言えば私たちには今、かつてない環境の危機、食料の危機がそこに迫っている。
  そして考古学の本には、縄文土器の底からクヌギのドングリも見つかったとある。☀
  そうであるなら、試してみる価値はありそうだ。いや、試してみなければならない。・・・と、素直な私は考えた。

  先ず、縄文の先輩たちには申し訳ないが、手抜きをして重曹で煮た。水は直ぐに驚くほど真っ黒くなった。これを数回繰り返した。色は全く変わらない。このときは、ほんとうに食べることができるのだろうかとくじけそうになった。
  その後は、至ってシンプルに水にさらして毎日水を替えることにした。まあ、重曹という近代兵器も使ったことだし、2週間もすれば澄むだろう・・・・・と。
  しかし、3週間たっても水は茶色い。コーラのようである。1か月たっても澄んでは来ない。とうとう1か月半、毎日毎日、日に2~3回茶色い水を替えてきて、そのたびに試食してきては吐き出してきたが、どうにか許容できる範囲の渋味にまで落ちてきた。
  それを砂糖とコニャックでグラッセにしたものである。この段階も手抜き中の手抜きで10数分の調理だったが、写真のようなものが出来上がった。

  食べてもらった友人たちには材料を一切語らずに帰ってきた。
  このブログを読んで「偽装の極みだ!」と怒るだろうか、それとも1か月半の苦闘に涙腺を熱くしてくれるだろうか。
 一昔前の「山の生活」の再現というイメージで、この記事のラベルは「民俗」にした。

2013年11月21日木曜日

しゃしゃんぼ の熟れるとき

  2011年3月に義母の昔語りを書いた。
  「お菓子なんか買ってもらったことがない。秋なら山で、こしきかがみそかちはじき・・・というような木の実を採って食べていた。」と言うのだが、それぞれが標準の和名でいう何の木だか判らず調べまわった。
  結局、遠い遠い昔の記憶となかなかマッチせず、半分私の独断で、義母の言うこしきは、(和歌山ではカマツカのことをコシキというとあったが)カマツカではなくシャシャンボ、かがみそはガマズミ、かちはじきはナツハゼのことだろうということで一見落着としたのだが、真相は霞の彼方である。
  それぞれを義母に食べてもらったのだが、「こんな味やったかなあ」ということでジエンドだった。

  その「しゃしゃんぼ(小々坊)」が、いま近所の歩道脇の小さな木に稔っている。
 調べて見ると、ツツジ科スノキ属らしいが、8メートルにもなる中高木と書いてあるものもあり、低木と書いてあるものもある。私の見ているこの木は超低木である。
  私は通るたびに二粒ほど口に放り込んで歩いているが、私以外に採る者がいないのだろう、いつまでも稔っている。
  市場で商品になるほどの味でもないが、遠い昔に義母が口に放り込みながら学校に通っていたのかと思うと、何とも言えず味わい深く感じる。

  しゃしゃんぼの直ぐ近くでは鳥が運んできたグミ?が花を咲かせている。(ナワシログミは開花が10月とある)来春が楽しみだが剪定されてしまいそうだ。

 10月の頭の、まだまだ夏の陽の暑い日に毛馬の閘門近くの与謝蕪村公園で稔っている木の実を食べた。友人の「チヌの海」さんが「しゃしゃぶや」と教えてくれたので食べたもので、ジューシーで美味しかった。
  しかし、あの味とこの味はどうも異なる。季節も違いすぎる。
  で、調べて見ると、しゃしゃぶしゃしゃんぼは違うもので、しゃしゃぶの方はグミ科グミ属の秋グミの四国地方での別名らしい。でも、まだ真夏のような10月始だったので、秋グミとは別のものかとちょっと半信半疑だがきっとそうだろう。
 しゃしゃぶも食べた、しゃしゃんぼも食べた、楽しい秋だった。

2013年11月19日火曜日

古代国家と天皇

   先日、佐藤宗諄先生による「門脇先生と日本古代史」という講義を聴いた。
  最初に佐藤先生が、「門脇先生の研究の出発点がここにある」と言って、門脇先生の「古代国家と天皇」という著書の「はしがき」を読まれた。
  そこの言葉が私の心に突き刺さったので、早速その本を購入した。
  1957年発行の定価160円の新書版のような本だが、ネットの中古本で約1500円で購入した。
  折角なのでご紹介する。

  第二次大戦の末期、郷土の兵営から陸軍二等兵として戦地へ送り出される日、ひじょうに悲しかったことが忘れられない。そのとき、わたくしは十九歳であった。・・・・・・・・
南中国の最前線で戦闘をやり、戦病者となり、部隊が上海へ撤退するとき本隊にはとりのこされて俘虜になって、俘虜のまま終戦を迎えてようやく日本に帰ってみると、「祖国」はすっかり変わっていた。もう誰にもだまされないぞ、と思って病床で、逆の意味、逆の意味にとりながら、戦時中の新聞を貪り読んだ。・・・・・・・・
わたくしは、わが「日本」が戦争に敗けた今でも、どこの国よりやっぱり一番好きだが、国民を戦争にかり立てようとする人や無関心な人は大嫌いだ。わたくしたちは「国家」についての知識や、自分の国をありのままにみる勇気が足りない点が少なくないと思う。国家は突如としてできたものでもなく、あるいは最初からあったものでもない。国家も天皇も歴史の産物なのである。だからわたしは、国家が成立してきた歴史をたどってみようとしたのである。・・・・・・・・・

  ここには、戦後史学界を先頭にたって切り開いてこられた先生方に共通する信念が表されていると思う。
  嘘で塗り固められたというか、学問とは異次元の狂信的なまでの皇国史観を信じ込まされ、多くの友人知人の戦死を見つづけ、アジアの人々を蹂躙してきた戦争の反省から、現代と未来を見据えようとした歴史学を打ちたてようとする気概が感じられる。

  「記紀編纂1300年」と銘打って、戦前のように記紀の記述を無批判に歴史的事実であるかのように語る風潮が台頭したり、専門分野、例えば正倉院文書なら正倉院文書だけを微細に研究する風潮があり、一方に、高齢者が趣味的に、現代社会問題にフィードバックして思考することのない歴史の講座を楽しむ風潮を、これら戦後第一期生の史学者、とりわけ古代史学者は遠い場所からどんな思いで見ておられることだろう。

  皇国史観の反省から、戦後の歴史家には「記紀は学問の対象ではない」というような傾向も一時はあったが、今は、考古学の成果と照らし合わせながら実証的に記紀も研究されつつある。
  そういう古代史研究は、文献内の世界をほじくってよしとするのでなく、否応なく近現代史を歪めようとする現代的諸課題(神話の教え方、道徳教育、教育委員会、公募校長、教科書検定、教科書強制、戦争の展示方法、等々々)に結びついていくと私は思っている。

 「古代国家と天皇」のあと、井上光貞著「わたくしの古代史学」定価1300円を、こちらは古書店で100円で買ってきた。
 祖父が井上馨で、その世界では井上皇帝(光貞=皇帝)とあだ名された泰斗で、門脇先生より少し年長だが同時代の東(東大)側の代表バッターである。
 しかし、その私などには想像もつかない貴族的な環境からでも、戦前の上司であった平泉澄氏の皇国史観や戦後の「逆コース」には徹底して批判をされていて、歴史の真実に迫ろうという真面目な学者の姿勢は感動的で一気に読み終えた。
 二冊の本は、胸に満腹感を覚える読書だった。

2013年11月17日日曜日

衣もとりあへず 手向山

  このたびは 衣(きぬ)もとりあへず 手向山 もみぢのにしき 神のまにまに

  こうなることは七割がた予想していたことだが、ほんとうにそうなった。
  13日の記事で七五三用の草履をネットで購入したことを書いたが、予想どおり孫の夏ちゃんは「大人の気まぐれなんかに付合っていられるか」と、草履はおろか着物の着付けさえ断固として拒否をした。
  現地で気が変わったらと、一式を車に積んで出発したが、この娘は言い出したらきかない子で、窓の外を指して「あの子も着物を着ているねえ」「この子も着物を着ているなあ」「着物を着ないと千歳飴をもらえないらしい」と誘導したが、「ナツキは着ない」とピシャリと言い返す。
 ということで、「幣(ぬさ)もとりあへず」どころか「衣(きぬ)もとりあへず」、紅葉真っ盛りの手向山八幡宮に向かった。
 もう一度言うが、三割に期待しつつ、七割がたこうなるのではないかと思っていたので、それほど落胆もしなかった。
  結局、ワンピースで通したのだが、これがお母さんも着ていたワンピースというのだから、記念すべき七五三として全く不満はないし、本人もいたって機嫌がよかった。

 大混雑の春日大社を横目に通り越して手向山八幡宮に行ったのだが、早かったせいもあり、単独でお祈りをしていただいた。贅沢なものである。神職にシャッターまで押してもらった。
 親の躾だろう、手水(ちょうず)もするし拍手も見よう見まねでしっかりする。仏前でも手を合わす姿が爺バカにはたまらない。
  その後、境内の『菅原道真公腰掛石』に腰掛けてパシャがこの写真。
 さらに、隣の三月堂、二月堂、まんなおし地蔵尊の石碑を巡り、二月堂下の恵比寿様等の各社の鈴を鳴らして回ってきた。
  千歳飴を頬張る姿に西洋人がハロー!ハロー!と喜んで呼びかけてくれたりして楽しい七五三だった。
 ただ、これが着物姿だったら、外国人にモデル料を貰わなければならないほどもっと脚光を浴びていただろうと、祖母(妻)は少しだけ残念そうだった。

2013年11月16日土曜日

紫ご飯

  私は、毎年ほんの少しではあるが「ササゲ豆」を植えている。そして今年も植えて収穫も終了し乾しておいた。
  それをこの間、脱穀というのか豆を取り出したら圧倒的に豆が黒いのでびっくり仰天した。
 なお、一部の豆は例年どおり「あずき色」である。
 そういえば、「あずき色」の豆と黒い豆とでは莢(さや)の色も異なっている。黒い豆の方は莢が白くて薄くて豆を取り出しやすい。だから「あずき色」が乾燥しすぎて黒くなったものでは決してない。
 どうも春に蒔いたのが「黒いササゲ」だったらしい。そうとしか考えられない。調べてみるとそういうの(黒いの)があるらしい。初めて知った。そして、「あずき色」の方は去年自然に落下していた種から生えていたものらしい。
 今から思い返すと、夏に莢ぐち食べていたときも、そういえば豆の色が例年よりも黒ずんでいた。そういえば・・・。しかし、今度本格的に脱穀するまで気付かなかったという自分自身の注意力もええかげんなものである。

  我が家のササゲは「赤御飯」=「ササゲご飯」に使うのがメーンである。
 もち米を半分ぐらい加えると美味しく炊ける。
 『関東では赤飯は小豆(あずき)ではなくササゲを使用した。小豆は豆が割れるので切腹を連想させるのに対してササゲは割れないためである。』とモノの本にあったが、このことは直接的には我が家とは関係ない。
 容易く作れ(栽培)て、夏には莢ぐち料理に使えて、秋には豆として収穫できて、赤御飯が炊けるからである。
 そうして、ササゲご飯を炊いたのだが、予想どおり赤くはない。
 「黒御飯」と称する御飯も世間にはあるようだが、種蒔き時の不注意をその都度思い出すようで面白くない。
 そこで我が家ではこれを、「紫ご飯」と呼ぶことにした。
 紫色は儒教では卑賤の色とされているが、道教とそれに立脚した我が国の多くの文化、例えば太子の冠位十二階では最高位の色とされている。故に「紫ご飯」のネーミングに文句はない。・・と、自分で言って自分で納得している。
 もちろん、味に遜色はない。我が家の紫ご飯は孫も含めみんな大好きである。

2013年11月14日木曜日

お国自慢

  先日、奈良、京都、鎌倉三都市の文化遺産を守る市民運動をしている人々のフォーラムがあった。
 そして鎌倉からは、「武家の古都・鎌倉」を世界文化遺産に登録させようと努力してきたが、現在いささか挫折感を味わっている・・・というような発言があった。
 その中で発言者が、鎌倉幕府成立の意義に触れ・・・・・、
 「都の貴族たちから東夷(あずまえびす)と馬鹿にされてきた坂東武者は、西国とは桁違いの開墾を成し遂げ、これを正当に安堵してくれる政権を望んだんだ。」
 「鎌倉幕府と武士による文化は、都から蔑まれていた東国の全く新たな時代の幕開けだったのだ。」
・・と鎌倉の都市と文化の歴史的意義を力説するのだが、その熱弁ぶりが、まるで現在の京都に対する関東の耐え忍んできた独立宣言のようで、反対に言えば、この場が中世の終わりの場面で、京都や奈良の参加者が公家の代わりに被告になって弾劾されているような、あまりに熱っぽい発言だったのが可笑しかった。(というような可笑しがり方をしていたのは私だけかもしれないが。)
 これも一種のお国自慢なのだろうし、その郷土愛こそが文化を守っているのだと私は思う。
 私もこのブログで、飛鳥時代や奈良時代のことを度々書いているが、読者の皆さんには「何がそんなに面白いのん」「それが現代社会の直面している諸問題と何の関係があるのん」と軽蔑されているに違いない。

 とまれ、奈良県では今、平城宮跡がコンクリート舗装されテーマパーク的に「復元」されようとしている。(地中の木簡腐朽の危機である。)
 若草山にモノレールを這わして観光客を呼びたいと言っている。(春日山原始林のバッハゾーンにである。)
 何れも私は反対である。観光政策推進には全く反対ではないが、その観光政策の各論の発想が下品だと思うからである。
 お国自慢の精神でこの都市の品格が堕落するのを看過できないと思うことは、極めて現代的課題だと考えている。

2013年11月13日水曜日

挫折した草履製作

  七五三を満年齢で行うか数え年で行うかは諸説いろいろだが、息子夫婦は「楽しいことは早くしたい」ということだろうか、「数え3歳の今年する」と我が家に通告があった。
 「衣装は(私たちの)娘のときのものがあるからそれを使おう」ということになった。
 しかし、探してみると着物はあったが草履がない。その理由は解からないがないものはない。
 ということで妻が草履を買いに大型スーパーに行ったのだが、「値段が数千円もする!!」と言って、「記念写真に一瞬写るだけやろうから」と、100円で青色のビーチサンダルを買ってきた。
 そしていつものとおり私に、これを数千円の和装の草履のように加工せよ!と命じた。
 ということで、先ずは水性ペンキで白く下地を塗ってみたのが写真のもの。
 記念写真にチラッと写るだけならこれでも支障はなさそうだ。
 しかし、他の家族と一緒に神社で脱いだらその差は歴然だろう。
 それならと、生地や鼻緒や底などの材料や接着剤を試算してみると、結局、数千円ぐらいはかかりそうだ。
 と、いろいろ逡巡した結果、今回限りなら写真の一瞬に数千円かもしれないが、未来の孫たちに使いまわしをしたら高くもないだろうと、一番安い草履をネットで注文した。どう考えても、自作はその完成品以上の材料費がかかるだろう。
 とはいえ、自作をあきらめて購入に切り替えるとは何たる軟弱か!と自己嫌悪に陥るが、もう自分の娘ではない、孫つまり息子夫婦の娘の時代である。
 中途半端な作品でも、お嫁さんもお嫁さんの実家のお祖父ちゃんお祖母ちゃんも口では笑ってくれるだろうが「孫が不憫だ」との心も去来するに違いない。
 「そんなアホナことができるのは自分の子供までやろう」と夫婦で言い合って草履の自作をあきらめ購入を納得した。

2013年11月11日月曜日

秘密保護法に反対する

  少年Hの映画では、神戸の洋服屋であったHの父が、アメリカに帰国した顧客からいただいたニューヨークの絵葉書を持っていたために警察に引っ張られて拷問を受け、少年Hは机にスパイと書かれた。原作は妹尾河童氏の自伝だ。小説ではない。

  私は、早逝した私の父が戦時中松下飛行機㈱で働いていたので、少し父を偲んで松下飛行機㈱のことを知りたいと国立国会図書館関西館に行って相談したりしたが、答えは「終戦前の軍需産業の記録は全く残されていない」ということだった。
  甘っちょろい私は、「戦前」というものがそこまで酷いものという実感がなかったので頬を張られたというか、目を覚まされた感じがした。
  私はこのごろ、特定秘密保護法はあの時代を再現するだろうという恐ろしさを感じている。

  普通、法律が成立すれば、それを実際に施行するために政令や省令(施行規則)が作られ、運用通達や本省課長内翰・事務連絡などが作られるが、現場の公務員の実務態度としては、内翰、事務連絡や解釈例規に従って公務を遂行し、そのレベルで不明な点は省令へ法律へとさかのぼるのである。
  こういう態度はオカシナことではなく、実務というものはそういうものである。
 だから、「特定秘密保護法の運用に当たっての留意事項」というような内翰(表向きは私信であるが実際は現場を束縛する)で、「この法律の立法趣旨は〈政権の秘密は国民の知る権利に優先する〉との趣旨であることは明らかなところであるから、政権に不利益を生じる恐れのある情報は全て特定秘密に該当すると理解して遺漏なきよう期されたい。なお、この内翰自体が特定秘密に該当するものであることは言うまでもなく、この内容及び本内翰が存在することを漏えいした場合も同法により罰せられることとなるので念のため申し添える」というような内翰が出されれば、現場はこの趣旨を最優先にして動くことになる。
  国会でいくら「正当な取材は認める」とか「国民の知る権利は尊重する」とか言ったとしても、汚い言葉で申し訳ないが屁のツッパリにもならない。
  事実、戦前の軍機保護法でも国会では「危険な運用はいたしておらぬ」と言い続けてきたのである。

  自衛隊による市民生活のスパイ活動が訴えられた裁判で、今年5月仙台高裁は自衛隊情報保全隊長を証人喚問したが、証人は一般論と言いながら、反戦平和の歌を歌う行為やプロレタリア作家の展示会、春闘の街頭宣伝等が対象になり、機関誌や広報誌、インターネットから集めたと言った。  この裁判は内部告発に基づいて始まったもので、仙台地裁では市民が勝ったが、特定秘密保護法下であれば、原告側が引っ張られることになるだろう。
 重ねて言うが、この法律は公務員や報道記者を縛るものでなく、国民全員を縛るものなのだ。

  安倍首相等は、北朝鮮や中国の悪口を嬉々として語っているが、彼らの人権感覚は北朝鮮や多くの独裁国家の水準と変わらない。
 それは世界中がお見通しのことであり、先日「フォーブス」が世界で最も影響力のある人物を発表し第一位がオバマからプーチンになったとマスコミは報じたが、安倍首相が57位だということはあえて報じなかった。
 57位ということは、習近平の3位、金正恩の46位よりも低く途上国首相以下である。
 国際的には、この国はいま泥船だと理解されている。乗員だけが最新艦だと誤解している。

2013年11月10日日曜日

歪めて建てるメンタリティー

  全く勉強したり調べもせずに述べるのだが、東大寺大仏殿の回廊も春日大社の回廊も、地面が傾斜しているとおりに傾斜して歪めて建てられている。そのメンタリティーの淵源がどこにあるのだろうかと常々不思議に思っている。

 大仏殿で言えば、本殿と同じように地面を真っ平にして回廊を造ることは可能だろうし、その方が技術的には簡便だと思う。
 古墳時代の石棺なども徹底して加工しているし、技術の問題ではないと思う。
 土地の神に遠慮したとも考えられない。
 あのように地面に沿って歪める方が美しいというか有難いというか、そういうメンタリティーだと想像する。
 それは奈良時代の感覚なのか、室町以後の建てなおし時の感覚なのか、法隆寺の国宝部分の建物を調べれば何かが解かるかもしれない。
 
 ただ私は、このように自然(地面)に遠慮して、土地の歪みのままに折り合いをつけて建てさせていただいているという感じは好きである。

 私の若かった頃は一言でいえば高度経済成長の時代で、自然を加工し征服するのが進歩であるかのようなメンタリティーが主流であった。
 建物や製品のデザインも素材も、人工的でシャープで工業的なものが尊ばれた。
 振り返ってみると、それは普遍的な近代主義でもなんでもなく、ただただアメリカのプラグマティズムに毒されていたんだと今でははっきり解かるのだが。
 その結果、「人類は自然を制御できるんだ」というような傲慢で大間違いの意識を持ったように思う。
 その帰結が原発ではなかっただろうか。
 原発推進論者は脱原発の主張を「情緒的主張だ」と言う。
 それに対して、私は真っ向から論理的に反論できるが、あえて「情緒的で何が悪い」と居直ろうかとも思っている。
 この国の文化は自然との共存であり自然に対して遠慮するのがこの国のメンタリティーであるのだと。

2013年11月8日金曜日

レインボーラムネ

  朝日新聞大阪本社版夕刊のシリーズのひとつに「まだまだ勝手に関西遺産」というのがあり、イコマ製菓本舗のレインボーラムネが9月に載っていた。
 パート5人の町工場の製品で、かつては卸売業者に買いたたかれ在庫の山で倒産寸前であったらしいが、じわじわと口コミで人気が広がり、我が家には息子夫婦が持ってきてくれていたりしていた。
 奈良県北西部では、知らない人は知らないが、知っている人はみんな知っている、隠れた大人気商品だ。
 そのため金融機関から工場新設を勧められるまでになったが、「仕上がりは自分でチェックしたい」と増産していない。
 そのため、今では、年2回の申込制で、2万人ぐらい申し込みをして1000人ぐらいしか購入できないそうで、幻のラムネにまでなってしまった。

  ということで、その記事を見て早速申込みしておいたのが抽選に当たって10月末に届いた。
 それがなんと、段ボール一杯の量で驚いた。
 そうか、それで注文の案内に「小分け用の小袋あります」とあったのか。
 ちょうど観ていたテレビの「家族に乾杯」の中の神主さんが「神社のタオルを少し注文したら2年分も届いてしまった」というようなことを困った顔もせずに言っていて此方が笑ったが、「お父さんのラムネも同じことや」と妻が横からツッコミを入れた。
 ところが、「知り合いに配るから貰って帰るわ」と息子夫婦、娘夫婦がどっさり持って帰ったので、・・・さらに妻が友人に配ったりして結局私が配る分は残らなかった。読者のみなさんごめんなさい。
 味はというと素朴そのもののラムネだが、それでは面白くなければ、思春期入口の初恋の味とでも書いておこう。
 記事には、「死の床にあった父が美味しいと食べてくれた」「紛争地域で活動するNPOに差し入れたい」「NASAの土産に持っていく」という申込者の声が載っていた。

2013年11月6日水曜日

こんなところに葛木神社

  大雑把に言えば卑弥呼の次の次の時代、5世紀「倭の五王」の時代は巨大前方後円墳の時代であった。
伝磐之媛陵
  その時代に、奈良盆地南部の磯城・磐余(しき・いわれ、桜井市・橿原市)を本来の基盤としていた(当時の古墳の多くは大阪に築造されたが)天皇家と・・・、
 奈良盆地南部を二分して、金剛山・葛城山東麓(御所市、葛城市、香芝市、北葛城郡)に権勢を誇っていたのが葛城(葛木)氏で、その葛城氏の娘、磐之媛(いわのひめ)が仁徳天皇の皇后となったが、天皇家一族以外からの皇后は異例中の異例だった。
 記紀によれば磐之媛は強烈なヤキモチ焼で、仁徳の女癖に怒って旅先から仁徳の元に帰らず、淀川から木津川を上り、奈良県北部の那羅山(ならやま)から葛城を望んで歌を詠んだあと、筒城宮(京田辺市辺り)で暮らしたという。
 そして、没して後は那羅山に葬られたといわれ、現在、その地である平城宮大極殿のすぐ北の佐紀楯列古墳群の中に伝磐之媛皇后陵はある。
 それはなかなかに立派な前方後円墳で、私はしばしば野鳥の撮影のために訪れている。

 権力との関係で巨大古墳はどのような場所に築かれたのかということは、いわゆる「王朝交代説」と絡んで論争のあるところで、4世紀中葉頃までの奈良盆地東南部の「やまと」の地から奈良盆地北部の「そふ」の地である佐紀楯列古墳群の地に築造場所が移動したことについても多くの意見がある。
 ナマクラな私などは、大先生方の本を読むたびにナルホドと思い、結局頭の整理がつかないままである。
 巨大古墳の築造地が顕著に移動(変化)しているのは王朝が代ったせいだ・・、いや、同一王権内で影響力を発揮した氏族の変化だ・・、墳墓の地は王権の宮とは関係ない・・、元の地が過密になったからだ・・、政治的効果を考えた位置だ・・、土地の開拓を考えたものだ・・、育てられた母系の氏族の地だ・・、途中から意味合いも変化したのだ・・、等々等々・・・・。

葛木神社
  ところが、伝磐之媛陵には30年近く訪れていたのだが、此の度初めて、その古墳の近くに葛木神社のあることを知って驚いた。間寛平なら「な、な、なんと」と叫ぶところである。
 有名な葛木神社は金剛山の頂上にある。そこに祀られている「一言主神」は御所市の葛木坐一言主(かつらきにいますひとことぬし)神社にも祀られている。そして、同じ葛木神社がこの那羅山の麓にあったのだ。
 何を驚いているかといえば、きっとここは葛城の領地だったのだ。だから、葛城の娘がそこに埋葬されたことに何の不思議もないのだと納得できたことである。
 というようなキーワードで他の皇后陵などが解けるのかどうかはわからないが、おいおいと考えていきたいと思っている。
 ちなみに、神功皇后(息長帯比売 おきながたらしひめ)は神話的装飾が著しい皇后で「架空の人物」と実在が疑われているが、私は実在したと考えている。父の息長宿禰は近江の息長氏とは別らしく南山城に勢力を張っていたらしい。とすると、伝神功皇后陵も実家の領地に葬られたことになり、全くの空想でもなさそうに思っている。
 葛木神社の社伝には「仁徳天皇が磐之媛のために建立した」と書かれているが、私は違わないかと思っている。
 葛城一族が、自分の領地に氏神を祀ったと考える方が素直ではないだろうか。
 「そんな誰でも思いつくような当たり前の想像が、何が嬉しいのん」と言われれば身も蓋もない。

 歴史の定説と言われているものも自分自身の五感で納得することが大切だ。
 秘密保護法など現在進行形の社会問題についても、それが定説であるかのように発表する政府見解や報道されるニュースを無批判に信じることはよろしくない。
 山本太郎議員が天皇に手紙を渡した件も、憲法第4条の「国政に関する権能を有しない」規定を踏みにじって天皇制を政治の舞台に引っ張り出す役割を果たすであろうことから私は反対ではあるが、園遊会が私的行事なら手紙も私的行為だろうし、天皇に対する請願なら(先の論から私は反対だが)提出先を間違えた問題だろう。それを戦前の不敬罪の脈絡で「懲罰だ」などという叫ぶ不見識をそのまま垂れ流す報道も報道だと思う。

 先日は奈良の頭塔について「復元の姿がしっくりこない」と書いた。そして、「史跡頭塔」のFacebookに質問を送ったところ、「屋根の形は裏付け資料が少ないため復元は断念した。」「この屋根は復元ではなく石仏の劣化を防ぐためにつけたもの。」と返事を戴いた。
 このことからも、いわゆる権威に盲従するのでなく、素直に考え議論することの大切さを痛感した。
 談論風発がいいですね。コメントお願いします。

2013年11月4日月曜日

大阪府の蝶に推薦する

  大阪府の木はイチョウ、花はサクラソウとウメ、鳥はモズだが蝶は定めていないようだ。それなら、このツマグロヒョウモンを大阪府の蝶に推薦したい。
 理由は、写真のとおり、そして名前の褄黒豹紋蝶のとおり、その衣装の豹柄は大阪の〇〇ちゃんにぴったり・・との連想からである。

藤袴にやって来た褄黒豹紋の雌
  実母の老朗介護をしていたころ、外界の四季の移ろいを感じてもらおうと、度々野鳥の写真などを持参したが、そんな折、「鳥は嫌いや。雄の方が綺麗で雌がパッとせんのが気にいらん」と言ったことがあって大笑いをした。
 「人間は女の方が格段に綺麗やからええやんか」と答えたが、自然界では鳥も虫も圧倒的に雄の方が綺麗である。(両方地味な者も居るには居るが。)

 そこで、多くの蝶や鳥の世界では何故雄のほうが派手なのかという疑問については、「雄と雌、どうしてこんなに違いがあるのかを考え始めたら解らないことばかりです」と、ダーウィン以降の豊富な学説を披露しながら、奥本大三郎・長谷川眞理子著「男と女・・二つの性がある理由」にはある。いろんな説や反論があって面白い。一番面白いことは、「虫や鳥の雄は何故雌よりも美しいか」ということを疑問に思って研究した人がほとんどいないということで・・・そういう疑問を解きたいと思う私は超少数派なんだと解ったことである。

  ところが、ところが・・このツマグロヒョウモンだけは雌の方が断然派手で綺麗で、本には「毒をもつカバマダラに擬態した」と書かれているが、生息地にズレがあったり、雄がそのまま地味だったりで、ほんまかいな・・と思っている。
 結局、何故ツマグロヒョウモンだけ雌が派手なのかはさらにさらに解っていない。
 微生物の寄生など何らかの理由で雄が極端に減ってしまったときに雌が必死になって「変身」したのだろうか。(という考えもダーウィン時代の相当時代遅れの学説の裏返しのようだが)
 ともあれ、数ある蝶の中で「うちらは女の方が派手なのよ」と豹柄を見せびらかせている超個性派のこの蝶ほど「大阪府の蝶」に相応しいものはないと私は信じている。

 なお、このように昆虫の世界などを覗いてみると解らないことだらけである。
 科学は自然界の全てを解き明かしたというような態度で原発を信じる気がしれない。

2013年11月3日日曜日

謎のピラミッド 頭塔

  「東大寺南大門の真南約950mに方形七段の謎のピラミッドがある」と、よくテレビのクイズ番組などにとり上げられている。
  奈良時代最大の事件であった藤原広嗣の乱で殺された広嗣の怨霊が仇敵僧玄昉を空の上で八つ裂きにして都にばら撒いたが、その頭が落ちてきたところがここで、故に頭塔というと巷間信じられてきたが、神護景雲元年(767)に東大寺の僧実忠が土塔(石塔)を築いたとの記録もあり、伝説よりも面白くはないが、行基さんの造った堺の土塔(地元の人々は「どうと」と呼んでいる)と同じ仏塔である。

  妻は「あれが仏塔やというのは当たり前のことやろう」と即肯定するのだが、私はなかなか納得できなかった。
 仏塔といえば我が国では三重塔や五重塔が一般的であるし、767年の平城京の外京といえば、東大寺、大安寺、元興寺、興福寺等々の堂塔の文字どおり甍の波であったはずである。
 その中に新たに塔を築いたにしては失礼ながら些かちゃちではないかと不満であった。
 だから「ほんとうに仏塔なの?」という疑問がなくはないのだが「そしたら何や」と問われると答えはなく、きっと、留学僧や渡来してきたバラモン僧の知識から、仏教の原点に返れという、・・・ストゥーパや甎(せん)塔に返れという思想なのだろうと想像する。

  さて、奈良時代の石仏で現存しているものは珍しいらしいが、七段の奇数段に石仏が計44基配置されていたらしい。今は、現存している石仏の部分に屋根がつけられて風雨から守っている。
 奇数段に長い屋根があったのか、なかったのか、石仏の部分にだけ屋根があったのかについては諸説あり未確定らしい。
 ただ、復元された『石仏の部分にだけ屋根があるデザイン』は私にはどことなく違和感がある。
 ある一説に基づいて石仏のところだけ屋根を付けるというような復元が許されるのだろうか???
堺の土塔
  普通にこれを見たら、奈良の都にこんな形の土塔があったと人は思ってしまうだろう。
 堺の土塔のシンポジューム関係の本に土塔と頭塔の復元図があるが、そこでは頭塔の奇数段の上に端から端まで屋根が葺かれている。すっきりしている。
 現状の復元案は奈良文化財研究所と奈良県教育委員会の判断らしいが、そして、発掘された瓦の数が少ない等の理由があるのだろうが、それにしても復元ということは怖ろしいものだとしばし考え込んでしまう。
 発掘調査直後の写真がパンフレットに残っていたが、この形で残しながら複数の復元案を別途展示する方法はなかったのだろうか。私にはその方がしっくりくる。

 少し余談だが、今この国の政府は秘密保護法だ国家安全保障会議だと突っ走っている。再び大本営発表の報道で国民を善導したいらしい。
 「そんな簡単には国民は騙されへんやろ」と多くの国民は思っているだろうが、こんな復元を見ていると(この復元が全くの誤りだと言っているのではないが)、性格の穏やかな庶民を善導するのはわりと容易いような気がしてくる。

 なお、この夏に堺の土塔を見に行ったが、復元された土塔は基壇も瓦敷きで全体が約67000枚の瓦で葺かれた十三重塔で、立派なものである。
 指導者行基さんと、河内・和泉の大古墳群を造り守った土師氏集団の高度な技術に圧倒された(土塔町の隣が土師町である)。一見の価値がある。
 堺の土塔に行かれる方は、バスのアナウンスまでもが「どとう」ではなく「どうと」であるからお間違いの無いよう気を付けていただきたい。

 追録  堺市発行「史跡土塔講演会録」に掲載の復元想像図

2013年11月1日金曜日

粉山椒

  青山椒を収穫したことは5月21日のブログに書いた。
 そしてそこに書いたとおり、その後第2弾第3弾の収穫も行った。
 だから、今年の山椒の実は全部採ったはずだったのだが、採り残していた実が秋空に赤く輝いてきた。
 ということで、今度は粉山椒に挑戦することにした。

  よく見ると赤い実のほかに、枯れたように茶色い実も残っている。調べてみると、どちらも使えるらしい。
 両方の実を収穫して、洗った後に1週間ほど乾かせた。
 そうすると、茶色い実の写真に写っているとおり、赤かった実の方からも、中から黒い種が顔を出してきた。
 素人の私のイメージなら、この黒い種こそ粉山椒の基に思われるが、この黒い種は捨てるのである。意外であった。
 太い不器用な指で選別して捨てるのは結構難しい。というか面倒である。
 要するに、粉山椒を挽く前の原料はこの「種の殻」だというのだから少し驚いた。
  これをペッパーミルで挽くと本にはあったが私はすり鉢で擂ってみた。あなどって小さいすり鉢でやってみたが手ごわかった。ほんとうに手ごわかった。やはりペッパーミルをお勧めする。
 そして、鴨ロースの山椒焼を作ったが、ご想像どおり文句なしの美味しい一品が仕上がった。
 残りは瓶詰にして残してある。
 日本原産の香辛料を自前で作ったのだから不味いはずがない。
 息子夫婦、娘夫婦も美味しいと絶賛したが、お父さん手作りの粉山椒だから一先ずは誉めておこうという心遣いかもしれない。
 子供たちに心遣いされるのは不本意ながらありがたい・・・と喜んでいていいのだろうか。