2012年12月30日日曜日

鳥納め

  庭のバードテーブル(餌台)にやってくる中で圧倒的に多いのは当り前のことであるが雀である。
  「なんや雀か」と言わないでほしい。
  現在急速に人間界周辺から姿を消していると言われている。
  (我が家周辺ではそういう実感はないが、新聞や本ではよく言われている。)
  それに、頬に黒い墨をつけたその顔は、じっくり見ると結構愛嬌がある。
  近頃の子供達で雀を絵に描いて見せられる子が幾人いるだろう。
  それほどに近い存在ではもはやなくなっている。

  それを窓の内側から見るともなく見ていると、どことなく神経質そうな、落着きのないときがある。
  どこがどうと具体的には言えないが、どこか様子がおかしいときがある。
  そんなとき、ヒューっと真横から何かが刺す様に飛んで来て、バタバタバタバタと、一瞬我が庭が修羅場と化す。百舌鳥の狩猟である。(雀はやはり殺気を感じていたのだろうが、・・・・)
  私の作ったバードテーブルのせいで犠牲が出るのは心が穏やかでない。
  後悔のような気分も湧いてくる。
  しかし、百舌鳥にとってはこれが死活問題の「なりわい」でもある。
  これもまた厳粛な自然の掟・・と、静観している。
  ただ、心のザワザワは続いている・・・・・
  自然は優しく厳しい。
 
  今年も我が家から半径数キロ以内の身近な鳥たちを数々紹介してきたが、・・・・・と言うことで、ちょっとだけ悪役になった百舌鳥の写真で『撮り(鳥)納め』にしたい。
  百舌鳥は鳥の中では際立って頭(の比率)が大きい。
  人間で言えば乳幼児の体型である。つまり可愛い。だが実は獰猛な猛禽類。
  つまり、ものごとは「見た目」で判断してはならない。
  それを2012年の自戒(教訓)として来年に臨みたい。

  みなさま どうか よいお年をお迎えください。

2012年12月28日金曜日

古墳を造る

右の方に伸びる前方部は18㎜広角レンズにも収まらなかった
  奈良県の北端近く、平城宮跡北側の佐紀盾列(たてなみ)古墳群の中に『コナベ古墳』(陵墓参考地)がある。
  過日、この古墳の1/2の古墳を運動場に地割する作業が奈良市立一条高校を会場に行なわれた。
  同趣旨の実験は1981年に堺市立西百舌鳥小学校で経験済らしいが、巨大古墳発祥の地ここ大和では初めてのことらしい。
  このプロジェクトのリーダーの宮川徏先生の説では、いわゆる前方後円墳には明確な設計思想があり、後円に対してどういう比率の前方部が造られるかで大王墓であるか否か、あるいは王統の系列が解るとのこと。
  特に墳丘長をひとからげに大きさの基準にして論じている多数の学説に対して「それは違う」と主張されている。(こういう論争を外野から眺めているのはとても楽しい。)
  私は、宮川説の全てについて理解し納得しているものではないが、何はともあれ貴重な実験であるので参加した。
  棒と糸と勾股玄(こうこげん、3・4・5のピタゴラスの定理)だけで書いたのだが、コナベ古墳の1/2でも運動場いっぱいに広がった。
  これが、一人の人間の墓である。(正確には多くの古墳は複数者が葬られているが。)
  その巨大さを改めて実感する。
  神仙世界への成仏を求めたのか、「よみがえるな」と祟られることを怖れたのか、盛大な首長権の移行儀式の会場だったのか、王権の力の誇示か、主従関係のシンボルか、・・・・それらがどの様に変化していったのか。 謎解きに終わりはなさそうだ。
  なお、少なくない前方後円墳は横から眺められることを前提に築造されているらしい。それは、小さい頃私自身が眺めながら育った伝仁徳天皇陵を見ても納得できる。あれは大浜側から見上げさせて、西日本の首長や大陸からの使者達に「まいったか!」と恐れおののかせていたに違いない。
  実際の継体天皇陵といわれる今城塚古墳も、横の堤上に素晴らしい形象埴輪によるジオラマが荘厳に飾られている。
  だとすると、「前方後円墳」という名称も、もちろん宮内庁が前方部に造った鳥居も大いに不適切だと言わなければならない。
  世の常識とは、とかくこのようなものである。
  権威や常識から自由になる。・・・・・・・・これ、実際には結構難しい。

閑話休題
  古の「しきたり」に思いを馳せたついでに・・・・我が家では質素なお正月しか準備していないが、それでも、若干の「しきたり」めいたこともする。
  そんな私を、妻と子供たちは、「外を向いて言うてること(一切の旧弊に捉われるな等)と内で言うてることが違うなあ」と笑い飛ばしている。
 ・・・・・で、祝箸 にはそれぞれの名を書いたが、私は悪筆なのでシール印刷させてもらった。「ナニ、印刷など言語道断だ」と指弾しないで貰いたい。このあたりが私(わたくし)的思考である。
  取り箸は「海山」とか「組重」と書く家庭もあるようだが我が家は「山海珍味」と書く。読者の皆さんはどう書かれます? 楽しい大晦日からお正月の貴家の「しきたり」などあればコメン トお願いします。

2012年12月26日水曜日

冬の雲雀

  この鳥は、冬の草原に10羽を超える集団で行動していたので、てっきりセキレイ科のタヒバリだと信じて撮影して帰ってきた。
  しかし、写真を良く見るとヒバリ科ヒバリ・・・・・つまり、普通のヒバリのようである。
  考えてみると・・・そういえば、セキレイ科独特の動作がなかったし、頭の形がタヒバリではなさそうだ。(中にはタヒバリみたいな頭もあるのだが・・・)
  で、タヒバリかヒバリかで1週間ほど悩んだ。 
  このように悩むのも、「ヒバリは春」「集団ではなく、それぞれの縄張りを囀って主張する」「地上に降りたヒバリは隠れてしまう」というような思い込みがあったからだろう。
  だから、例の高らかな囀りも、そのためのホバリングもなかった冬のヒバリが別モノに思えたのだと思う。
  「非繁殖期には小さな群で生活する」というようなフィールドガイドの解説なんか知らなかった。ヒバリが群れるって・・・?知らなかった。
  既成概念というか、思い込みで眼(マナコ)は曇りに曇るものである。
  しかし、そういう逡巡の後やっぱりヒバリだと思うと、この寒風の向こうには春が待っているという感覚が湧き上がってくる。
  これもノーテンキな思い込みだろうが。
  いや、それは真実である。

2012年12月24日月曜日

俺がこんなに強いのも

  私は毎日、㈱アルプスのコンコード赤ワイン辛口という酸化防止剤無添加の安物の「癖のない」赤ワイン、あるいはそれと同等品を嗜んでいる。
  それを知って息子のお嫁さんが、先日、クラッカーとチーズを提げてやって来てくれた。ありがたいことである。
  そのクラッカーがなんと、前田製菓のクラッカーだったから珍しいので驚いた。
  CMのキャッチコピー「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」は、私達の世代の関西人なら知らぬ者はいない。
  さらにその大きな工場は我が故郷堺市にあり、その工場周辺はいつも美味しそうな香りが広範囲に充満していたから、そんな記憶も交えて懐かしいクラッカーだった。

  そしてチーズは、私の好きなカマンベールチーズと一瞬思ったが、よく読むと『ブリーチーズ』(Le Brie)とあった。それって何?
  調べてみると、フランスはブリー地方の白かびチーズの本家のようなもので、カマンベールチーズはその分家筋に当たるという、そんな能書きは不要の、とろけるような「癖のない」美味しいチーズで、ちょっとこれは虜になりそうな危険な代物だった。

  照明を落としたテーブルで、このチーズにコニャックを振掛けて火を点し、青白い炎で温まったところをワインの肴にしたいが、老夫婦だけでは今更そういう気にもなれず、次に息子夫婦とチーズが好きな孫がやって来たときには・・と思うが、それまでにはきっとなくなっていることだろう。
  今夜はクリスマスイブ、ちょっとおどけて点してみるか。

2012年12月22日土曜日

それをエアとは畏れ多い

ネットから
  先日、かつて実母の介護に通い慣れた老人施設でお餅つき大会があった。
  「久しぶり」と言ってくれる入居者もいるし「あんた誰」という人もいる。多数の方は表情が少ないが仕方がない。
  部屋から会場まで順番に皆さんの車椅子を押し、手を洗っていただき、そして、お餅を配ったり善哉を配ったり話しかけたりと行事を盛り上げるだけだったのだが、結構疲れた。

  12月8日のブログでこの日のために「老人施設の『エア餅つきと写真撮影用の杵』を作った」ことを報告したが・・・・・・・。
  ラワン材の柄と発泡スチロールの頭という安直なものである。
  費やした努力は20㍉のドリルの刃を探したことと柄の先に少しカンナをかけたことぐらいだ。
  こんなものでも、一瞬でも手にとって笑ってくれれば好いがと願っていたが、もしかして・・・と思って頭の部分をラップで包んで全体に除菌スプレーをふり掛けて持参した。

  そして、スタッフとボランティアが搗くのを取り囲んで皆に丸めてもらったのだが、・・・この超軽量級杵は大好評で、多くの方々が頭の上まで持ち上げて嬉しそうに写真に収まった。
  そのうちに、手を伸ばして臼を搗きたそうな動作の方が現れ、それならと何人かに出てもらうと、ほんとうにお餅の上を搗き出した。音は文字どおりペッタンペッタン。見た目は全く本格的だった。
  かつてないことで、入居者がほんとうにお餅を搗いたのだ。会場は大興奮。
  この杵は、今年1年の私の工作の中で一番安易な作品だったが、一番人に喜んでもらえた作品だった。
  こうなったら、「老人施設や保育園用の杵の製作賜ります」・・と看板を上げようかと、ちょっとだけ天狗になっている。

2012年12月21日金曜日

一陽来復にササゲご飯

  冬至である。
  雨の中、関電本店前で原発ゼロをアピールして帰ってきてから柚子湯に入った。
  南瓜を食べた。
  そして、赤い色で邪気を祓うという小豆粥をグレードアップした?ササゲご飯を食べた。
  ササゲは自家製無農薬野菜である。えへん。
  昔、武士は小豆は腹が割れるから小豆の赤ご飯や赤飯は食べなかったらしい。と、本に書いてあった。(切腹の連想を嫌ったのだと)
  だから、小豆の代わりにササゲを使用したという。
  といういきさつは我が家のササゲとは何の関係もない。
  作りやすく、青い莢の段階でも食べられるし、このように豆としても利用できるから毎年植えている。

  数日前から相当な腰痛に悩まされている。
  腰をかばってあまり動かないものだから、喉を含め内臓系全般も不調を覚える。
  頃は冬至。古人が太陽の衰えを怖れ、いろんな行事食等を編み出して太陽の復活と健康を願った気持ちが実感としてよく解る。
  しかし、テレビは益々のクリスマス寒波を報じている。 ああ。

  風邪に関する私の持論は、「伊達の薄着」と「うたた寝」が風邪の素。
  皆さん くれぐれもご自愛ください。

2012年12月20日木曜日

交名の儀はちょっと期待外れ

左下に私をとっているテレビカメラが無気味である
  お酉様や終い天神、納め荒神のような師走の行事もいろいろあるが、大和の師走の最大の行事は『春日若宮おん祭』である。
  清少納言に言わせれば「祭といえば賀茂の祭(葵祭)」であるが、さらにその原型とも言われている。
  そして八百七十有余年途絶えることなく古式を伝えているという点では最古の祭とも言える。
  今年は、その『お渡り式』の中の『南大門交名(きょうみょう)の儀』を見物した。
  祭礼の主催権をもつ興福寺の南大門跡において興福寺の衆徒に参列側が交名(出席者名簿?)を読み上げるのであるが・・・・・、
  居並ぶ興福寺の衆徒(山法師)がアルバイトのようであり、読み上げに予想したような威厳がなく、ちょっと期待外れであった。
  観客など知ったことでない馬が大小を撒き散らしたりした可笑しさの方が記憶に残った。
  到着を待っているとき、東京から来たというおじさんがいたので、『私は今年は山法師を撮ろうと思ってここにいるが、東京からわざわざ来たのなら一の鳥居の影向の松のところの「松の下式」に行く方が絶対に好いですよ。』とアドバイスしたのだが、これは的確な案内だった。もし、来年初めて行かれる方は、このブログを思い出して欲しい。
  尤も、夜遅くまで徹底して中世の芸能に浸りたいなら御旅所式となる。
  おん祭は、奈良ではあるが平安絵巻である。
  子供達はそんな些か間延びのした「時代劇」よりも屋台のアテモノに夢中だった。あたりまえか・・・・・・

2012年12月18日火曜日

世の中を明るくしたい

道路から撮りました
  未来が暗く感じられる選挙結果だが、それ以前から我が街は年とともに暗くなっていた。
  一時は12月ともなると各家庭のイルミネーションが美しく、それを見物しながらの夜の散歩も楽しかったのだが。
  ところが、だんだんその数が減り、ごく普通の街になりつつある。
  単に子供が大きくなったからというのでなくイルミネーションが減っていっているので、リストラや賃下げの結果でなければよいのだが・・と妻と話し合っている。
  しかし、残念ながら、そういう想像しか思い浮かばない。
  家庭のイルミネーションは、家庭の可処分所得・・・生活の余裕と直結していないだろうか。もちろん、収入を考えずに遊び心を優先する我が家のような例外もあるが。
  そして去年には3.11フクシマ大人災事故が発生し、一段とイルミネーションが減少した。
  しかし、このまま街が暗くなってよいものか。
  今年は、日頃この種の買い物を「無駄遣いだ」と非難する妻が、珍しく「孫のために1種類増やそう」と同意した。
  その増えたイルミネーションが平面的なサンタクロースで、通常は窓の内側から外に向けて吊るしておき、孫がやって来たときは内向きにした。
  当然、孫は非常に喜んで、・・・・「よかったよかった」と爺婆もまた非常に喜んだ。
  だんだん設置と取り外しが邪魔臭くなってきて、手持ちの全てを飾ったわけではないが、まあ4種類ほどあちこちに設置した。
  お向かいも子供は大きいが「飾る派」なので、我が家の一角だけは時代に抗して「未来を」照らしている。
  暗い世の中だけに、これを「節電意識がない」などと怒らないでもらいたい。
  年金が減らされたり、政策的なインフレが実施されると、我が家だって来年は躊躇するかもしれなくなる。
  世の中を明るくする話がどうしても暗くなる。ああ!

2012年12月16日日曜日

国破山河在

  今年は、この国に現存する最古の書物といわれる古事記が編纂され、太安麻呂が元明女帝に献上してから1300年になる。
  この栄誉ある最古の書物は、奈良県(庁)の古事記出版大賞を受賞した別冊太陽『古事記』登載の大塚ひかり氏の記事に言わせれば「セックスとうんこだらけ」の物語(千田稔氏に言わせると「戯曲」)であるが、そういう物語が皇国史観の教科書となって戦時体制が築かれていったのであるから、戦後生まれの者には信じられないが教育の統制というのはそら恐ろしいものである。

  さて同じ年、つまり1300年前の712年は詩聖杜甫が生まれた年であり、今年は杜甫生誕1300年でもあるのである。
  それを新聞で知って私は、彼の文字の国、書物の国とその辺境の島国とのあまりに大きなタイムラグに愕然とするのである。
  そして・・・・・、辺境の国はその文化度において文字の国に追いついたのだろうかと考えた。

  荒っぽい言い方だが、文字のない時代の歴史は考古学が、文字以降の歴史は文献史学が主として担っているが、その歴史時代(文字時代)の初期の文字(木簡)の宝庫が平城宮跡で、今も地下の水脈により「地下の正倉院」といわれるように『保管?』されている。その価値は計り知れない。

  ところが、そもそもの発信元は奈良県知事だと推定されるが形式的には国土交通省が、イベントがしやすいように?と言うことだろうか、秘密裏にここを広範囲に舗装し始めている。
  浸水性がある舗装というのだが、すでに舗装された大極殿前には草1本生えていない。
  砂利がひかれているが私が靴で払ってみるとその下はしっかり舗装されていた。
  京奈和道トンネル工事案もしかりだが平城宮跡の木簡は文字どおり危機に瀕している。
  水が涸れると木簡は朽ちてしまう。
  木簡が眠っているからこその世界遺産なのに・・。
  私は、現代中国の政治体制や民主主義の度合いについては大いに批判的意見を持っているが、それを偉そうに見下しているこの国の為政者たちのかかる文化の軽視には、白頭を掻いて涙が止まらない。
  (杜甫に釣られて結びの文章が大袈裟になって自分自身で笑っている。ほんとうは涙は出ていない。)

2012年12月14日金曜日

はるかなるミャオ族

  先日、町内会の餅つき大会が無事終了した。
  20臼近くの餅つき大会だから、結構盛大なもので、「餅つき大会顧問」としてはホッとしている。
  昨年までは、「貴方搗く人、私食べる人」的な感じがあったので、今年は、実際の作業に参加してもらおうとひっきりなしに大きな声でお誘いし、ちょっとはそのようになったように感じている。
  総じて高齢の男達は暖をとるのを兼ねて「カマド奉行」にたくさん集まり、また昔を懐かしんで餅つきそのものの参加率もよかった。
  奈良公園などを歩いていると婆さんの逞しさだけが否に目立つが、餅つきは貴重な爺さんの活性化策だったんだ。
  また、若いご夫婦などにも私が強引にお誘いし参加してもらって盛り上がったが、しかし、中には綺麗な服を着てお餅を貰うだけの母子も少なくなかった。ああ~!
  でも、昨年よりも子供達が無邪気に参加してきたので、少し冷めすぎ状態まで思いっきり搗かせてあげたり、餅つき途中の白蒸し状態や半殺し状態のものも「ナイショ」と言っていっぱい食べさせた。こういうイレギュラーなことこそ子供達には楽しいものだ。だから、搗きあがった臼にこびりついたお餅も「おいしいぞう」と言って食べさせたら素直に喜んでくれた。うん、これならこの民族の将来も悲観することはない。
ミャオ族の餅つき(ネットから)

  穀物を・・粉にして、丸めて、蒸したり茹でたりする料理法は世界中にある。
  しかし、穀物を・・蒸して、搗いて、丸めるお餅はあまりない。
  我が国の文化の大きな源流である中国の中原や朝鮮半島にも(古くは)ない。
  その故郷らしきところは、中国南方から東南アジアにかけてのミャオ族らしいように私は思う。
  鮨、納豆、魚醤のルートと重なる。
  その伝達の主人公は、漁師か、交易商人か、ボートピープルか、勉強もせずにただ空想するだけで楽しい。
  テレビで見たミャオ族の棚田は文句なく私達に郷愁を感じさせないか。

  その昔、原水禁世界大会に参加したとき、モンゴル、朝鮮、中国、ヴェトナム、スリランカ等々の参加者の顔を見たら、確実にそれぞれその民族らしい特徴があった。
  なのに、同時に思ったことは、そのそれぞれと同じ顔が日本人の中にあるということ、つまり、間違いなく我々はアジアの偉大な混血児だという感想を抱いたことを思い出す。その祖先としてミャオ族もしかりである。(シベリアや中央アジアにも同じ顔の人々が多い。)
  偏狭な人種・民族主義を主張しようとは思わないが(帰化した方やハーフ等の方々を無視しているわけでは決してないが)、そう、間違いなく我々はアジア人なのである。
  これは当たり前のことではあるが、選挙演説を聴いていると、この人は自分をアメリカ人だと信じきっているような党首等が少なくない。
  それはパートナーこそドイツ・イタリアではないが、7~80年前にこの国が誤った大きな勘違い(脱亜入欧)の再現のように思えてならない。
  そのアメリカは今、経済大国であるとともに大貧困大国である。そして大軍事大国であることは言うまでもない。
  そんな中で、日本共産党が「日米安保条約でなく日米友好条約を!」と言っているのはこの国の理性だと私は思っている。

2012年12月12日水曜日

鯨が出てきた

  「奈良の大仏と土佐の鯨はどちらが大きいか? 金(曲)より鯨が2寸長い。」は、曲尺(かねじゃく)・鯨尺が身近になくなった今では、私など一般庶民にはけっこう高度なクイズになる。
  尺貫法の使用が禁止され、メートル法に限るとされたのは昭和34年で、世間ではその前から大々的にキャンペーンが張られていた。
  戦後民主主義の申し子で小学校高学年であった私などは、そのキャンペーンを素直に受け入れ、「尺貫法などに拘っていたのでは社会の近代化ができない。」と信じていた。
  ものごとには歴史があり、建築や呉服にはその社会があって上手く回っていることなど知る由もない子供だった。
  この法律では、尺貫法の物差(ものさし)を作ることはもちろん使用することさえ違法となり、職人の世界ではそれはそれは大事件であった。
  これに怒った永六輔氏がラジオ番組で闘争宣言を発し、尺貫法の物差を販売したり、それを警察に自首するデモを組織し、ついには事実上の「復権」を勝ち取った話は書物等で有名であるが、それらの貴重な意義を理解したのは大人になってからだった。
  そして今回、実母の持ち物の整理をしていて出てきたのがこの竹の物差。
  表向きは「75cm差(さし)」だが反対側に鯨の2尺が刻まれている鯨差。いや文句なしの鯨差。
  家で和服を縫うこともないだろうからもはや我が家では出番は考えられないが、それほど邪魔になるものでもないだろうから、とりあえずはとって置いて、孫が大きくなったら見せてやろう。
  実母は99歳のときにあった地方選挙にもきっちりと投票に行ったような人だったから、これは、今般の選挙に際し、軽薄なブームなどに流されず、90年の歴史に試された物差でしっかりと選択してほしいという願いと理解することにしよう。
  それはさておき、銅鐸の絵の中に「工」字形の道具を持った人がいる。
  これは大型桛(かせ・糸巻き)で、王の身長に相当する「メートル原器」だ・・というのが宮川徏先生の説。
  この話の続きは長くなるので、いずれ日を改めて書いてみたいが、現状に即して言えば、王様やメディアの物差でなく、庶民の物差で理性的な判断を行なうことが大切だと思う。

2012年12月10日月曜日

炭の薫りと母の思い出

  脱原発のために意固地になって節電をしているのではないが、先日から火鉢を楽しんでいる。
  もう何年間も本格的な使用はなく、私の無駄遣いの典型として妻からののしられ続けてきた火鉢であるが、原発と全く無関係でかつエコであるところが気分が好い。
  地球温暖化=CO2の上でも、元々樹木が吸収したCO2が出ただけと言われている。
  我が家がよくバーベキューをするものだから、「屑炭でよかったら」と近所のお茶の先生からいただいた炭なもので、マングローブ炭なんかと全く違って好い薫りもする。
  外泊の義母も、「炭はええなあ」と喜んでくれた。
  私達の親の世代の常識を私達の世代が知らないことも多い(知っている方も少なくない)が・・・
  炭焼きもそうで、母は「炭なんか買うたことがない」という。そして・・・、
      田圃のネキに穴を掘りますねん。
      山からクヌギの木を切ってきてロの字型に組みますねん。
      それをすりぬか(籾殻)で覆って煙突を立てて土を被せますねん。
      火を点けて、後は煙の色を見て消しますねん。
      燃えすぎたり、まだやったり、炭焼きは難しかった。・・・・と述懐した。
  戦前の生駒谷の農村風景だ。
  炭はお客さんのときにだけ使う特別「高級な」ものだった。

  今、薪等を採らないために里山が荒れているのだと聞く。
  そのために猿や猪が里の田畑を荒らすのだとも。
  軟弱な私は、戦前の生活へ戻ろうなどと言う主張をする気はないが、私達はもう少しこの半世紀ほどの間に忘れてきた「忘れ物」を思い出してもいいのではないだろうか。
  それは生活習慣だけでなく・・・、
  ・・・インフレ策だ、規制緩和だ、果ては改憲だ、核武装だ的な発言がまかり通っている。
  戦後民主主義と一歩一歩積み上げられてきた福祉の思想がほんとうに「忘れ物」になろうとしている。
  偏狭なナショナリズムや右翼的思想は、未来が確信できない青年層のやけっぱち思想に支えられているようだ。
  つまるところ、今こそ労働政策の出番だと私は思っている。
  青年に職があり、真面目に働けば明日は少しずつよくなる社会であるべきだ。
  維新の最低賃金制の見直し公約などは言語道断である。

2012年12月8日土曜日

ダンドリ君のパパ(Ⅲ)杵を作る

  12月はお餅つきの季節である。
  昔、親に聞いた話では、戦前の大阪市内では「ちんつき(賃搗き?)」が普通であったらしいが、私が中学生であった昭和30年代の堺の中心街でも同様で、「もち米と賃料」を払うと家の前で道具一式を持参した数人が、そのあたり数軒分のお餅を搗いてくれるのだった。
  ただ『まだ戦後』という時代であったから、例えば1升5合のもち米が1升分のお餅になったのかも知れない。(このあたりのことは正確には知らない。)
  そして、漁師の息子など体力のある同級生はそのアルバイトに雇われて稼いでいて、なんとなく彼らが大人に見えたものだった。
  という「見ていた側」の都会の子であったから、私はお餅つきの経験を持っていなかった。
  それが祖父母世代が農家出身である妻と結婚をして、毎年妻の実家でお餅つきをするようになり、義父が亡くなってからはその道具一式を私達夫婦が預かった。
  そして、知らない間に『お餅つきを知っている貴重な古老』に分類されるようになっていた。

  地域によっては不祝儀でもお餅を搗くらしいが、ごく普通にはお餅つきは目出度い行事である。
  昨年、実母がお世話になっていた老人施設でお餅つきがあったが、「お餅つきは目出度いなあ」と実母は喜んでいたし、みんな楽しそうであった。また、はるか昔のお餅つきの思い出がよみがえったように手を動かしておられる方もいた。
  そして私が持参した子供用の杵を手に持って喜んでもらったが、正直に言って子供用の杵でも重たすぎたし、中には振り回しそうにされる方もいて大変だった。
  ~そして1年が経過した。
  そして先日、「去年は杵を持って来ていただいて写真が撮れてみんな喜んでいたなあ。」という話になり、話の勢いで「それなら今年はもっと軽いのを作りますわ。」とダンドリ君のパパは答えてしまった。
  で、ホームセンター巡りをしていろんな材料を検討したが、結局、ものすごく簡単な発泡スチロールがあったので結果としてはあっけないくらいイージーな作品(エア餅つきと撮影用の杵)になった。
  でも許してもらえるだろう。
  この杵のせいで、一瞬の大笑いと、かすかな記憶が数日残れば嬉しいのだが。

  介護の現場を見ていると「福祉のための消費税」という主張が如何に嘘っぱちかと言うことがよく判る。
  結局、日本共産党が言うように、財源の問題と言うよりは政治姿勢の問題で、税の応能負担等を徹底すれば消費税に頼らない福祉国家が可能だと思えてくる。
  良い介護とはつまるところスタッフの数と心の余裕だと思う。
  いつの間にこの国は「人件費は悪」と言うような品格を欠く国になったのだろう。

  孫がやってきて、この杵で見事なエア餅つきをしてくれた。
  この子が大きくなるまでに、原発のない暖かい福祉国家をつくりたいものだ。

2012年12月6日木曜日

四十雀寄せという農法があった

  シジュウカラというと季節感もない身近な鳥だが、実は結構美しい。
  始終ヤマガラと一緒に我が家にも水浴びにやってきてくれる。

  昔、農林省(当時)の友人に「庭木の毛虫をどうしたらよいか」と尋ねたところ、「毛虫が増えたら栄養満点で鳥が増えて毛虫が減る」と教えてもらったが、鳥が増えて毛虫が減る前に庭木が坊主になった。
  一般論と個別事案の按排は難しい。

  孫引きで恐縮ながら、川口孫治郎著「続飛騨の鳥」 に岐阜県の東美濃や付知地方の「四十雀寄せ」というのがあった。
    冬の初めにシジュウカラのオスを籠に入れて桑畑に連れて行く。
    たっぷりの餌をもらって小春日和に気分がよくなったオスは歌を歌う。
    すると歌に誘われたシジュウカラが集まってきて大合唱団が編成される。
    そして、桑畑の虫たちを片っ端から食べてしまう
・・という実際に効果のあった感動的な害虫駆除法らしい。

  こういう先人の知恵を忘れてしまった(知らなかった)私たち現代人は、いまフクシマに驚愕して反省するばかりである。
  あえて言うが、自然を畏怖しない政治が目指す社会に未来はない。
  私は本気で脱原発を実現したいので、いま本気で日本共産党に伸びてもらいたいと思っている。
  フクシマの危険性を具体的に追求してきたのは、古くは不破哲三、その後は吉井英勝前議員しかいなかった。引退が惜しまれるがその後輩達に期待しよう。

2012年12月4日火曜日

山椒は小粒でも さるぼ貝

  選挙報道が喧しい。実はあまり喜ばしいことではないのだが、テレビ等マスコミへの露出度が投票行動に大きな影響力を持っていることは事実である。
  そして、そのテレビ等マスコミが極めてアンフェアな態度をとっていることは識者によって種々指摘されている。
  だから逆説的に言えば、意図的にマスコミが排除しようとしている部分にこそ真実があるのではないだろうか。

  さて、「今日の赤貝のにぎりは安かった」と喜んでいたら実はサルボ貝(猿頬貝・さるぼう貝)だったということが多いらしい。
  と言って、サルボ貝がまがい物だということではなく、まあ小型の赤貝だと思っていただければいい。
  つまり、真の実力はあるがその名前は不当に排除されている。・・・ということで、何となく助けてやりたくなる貝なのだ。

  このサルボ貝、堺泉北コンビナートの埋立が始まる以前は、そのあたりの大阪湾の特産物の一つだった。(と言って、ほとんどの方は赤貝だと思っていただろうが・・)
  以前のブログで「堺でも紀州訛りの影響でサブロウ貝と呼んでいた」と書いたところ、同窓生から「家の前の道路上で身を剥いていた家がたくさんあった」とコメントをいただいた。
  ・・という、ただの貝ではあるが、個人的には昔懐かしい堺は大浜の思い出の貝である。

  それが、近鉄百貨店で売られていた。(残念ながら大阪湾産ではない。)
  写真の量で500円余という安さだし、もちろん早速購入した。
  先ずお刺身に取り掛かったが、ちょっと赤貝の代打というには小さすぎた。それでも夫婦二人の食卓を十分に賑わしてくれた。
  後の大多数は、酒と醤油とみりんでサッと蒸し煮にした。豪華なおかずで満足だった。
  缶詰の赤貝は実はサルボ貝だと言われている位だから味には文句がない。

  繰返すが、味は一流なのに不当に低く評価されている。
  サルボ貝よ泣くんじゃない。赤貝と詐称したりまがい物扱いしているのは人間の勝手である。
  そういう人間は今、明日の保証のない公約とやらを振りかざす「まがい物」にまたもや騙されてしまうのだろうか。
  私は北極星(ひとつ星)のようにぶれない政党を信じたいが。

2012年12月1日土曜日

白鶺鴒

  ハクセキレイは身近にいるがチョコマカ チョコマカしていて、いざと言うと写真に撮りにくい。
  それに模様も結構いろいろあり、個体によっては少しばかり薄汚く見えたりするのだが、この写真はハクセキレイらしいハクセキレイで我ながらチョット気に入っている。
  セキレイというと背中が真っ黒でそれとのコントラストで胸と腹がまっ白に輝いて見えるセグロセキレイの方が印象深く、ハクセキレイは相対的に地味な感じがするが、どうしてどうして、よく見ると気品がある。

  東京など関東では1980年代頃から都市中心街で大きな塒(ねぐら)をつくっているというのだが、私はハクセキレイの塒を見たことはない。もし、近畿圏でそんなところがあったら教えていただきたい。
  ムクドリの塒はテレビでも再三採り上げられるほど公害として認知されているが、セキレイの塒がそれほど問題にされていないのはどうしてだろう。ムクドリのような悪声でないからだろうか。それとも、「セキレイがいなければ日本民族は存在し得なかった」という日本書紀の記述のせいだろうか。
  そうだとしたら、この国のメディアの病は重症である。

  そんな私の心配性を笑い飛ばさないでほしい。
  松本サリン事件の報道があったとき、私は一時河野さんが犯人だと信じ込んだ。
  イラク戦争のとき、「アメリカもアメリカだが、実際にはフセインも大量破壊兵器を持っているだろうなあ」と思っていた。
  そして、3.11のときに繰返された「直ちに健康に影響ない」という極めて政治的な虚偽報道は記憶に新しい。(実は16万人もの方々が未だに避難生活を強いられているのだ。)
  そして今、明らかに意図的に日本共産党の動向を報じないで右翼勢力間の野合を新しい第三極のように描こうとするキャンペーンが張られている。
  小さい頃、慶応生れの私の祖母は「狐に騙されたことがある」と真顔で語っていたが、私達は現代、もっと恐ろしい魑魅魍魎に騙されているような気がする。