2012年1月29日日曜日

続こおつと大学

   一昨日のブログに書いたように、こおつとという言葉を義母は「使っていた」と言うのだが、その子である妻は「知らなかった」と言う。
 そして、胸に手を当てて考えてみると、それは決して義母(親)と妻(私たち)の世代間だけの問題ではなく、こういうような最新技術や生産性と何の関係もない言葉や言い伝えのようなもので私が知っていることでも、「きっと子どもたちは知らないだろうなあ」(つまり私が子どもたちに話していない)ということもいっぱいあるなあということに思い至った。
 「いただきます」に「よろしゅうおあがり」
 「ごちそうさまでした」に「おそまつさまでした」・・ぐらいは言ってきたかも知れないが・・・。
 「偉そうな口を利く」ことを「ほげたを叩く」と言ったり、何かの縁起直しに「つるかめ つるかめ」と唱えることや、元墓場の土地の上に家を建てると商売が繁盛するとか本の紙の端が折れ込んだまま裁断されたのを「戎紙」といって縁起が良いという言い伝えなどは語ってきていないだろうから、このブログを読んでも、子どもたちはきっと古典落語の世界と思うことだろう。
 しかし、まあここまでに書いた言葉の消滅には実害はあまりない。

 ところが、これが老人施設となると・・・話はリアルな実際問題であることを近頃発見した。
 以前のブログに、「私が施設の所長ならスタッフの採用試験に“お富さん”の独唱を出題する」と書いたが、それに加えて「消えゆく関西弁」も必須課目にしなければならないことを実感した。
 なぜなら、一昨日のブログに“高野山”を書いたが、この高野山を多くの入所者は「ご不浄」とか「はばかり」と言うのである。そしてほとんどのスタッフは「そんな言葉を最初は知らなかった」と言う。・・・入所者が「はばかりに連れて行って」と言うのにその意味が「判らなかった」・・・ということもほんとうにあったらしい。
 こうなると、戎紙の言い伝えを知らないというレベルとはチョット質が違う。実害が生じている。

 入所者の言っていることが判らない。きっと認知症が深まったのだとスタッフは思っている。しかし実は「消えゆく関西弁」を知らなかっただけ。・・ということも実際には各処であったのではなかろうか。とも想像する。

 例えば、入所者が「川の縁を歩くときはがたろに気をつけたもんや」と思い出を語っても、がたろが河童であると知らないスタッフには「認知症が進んでわけのわからないことを言っている」と思ってしまうようなこともあったのでは・・・・・。

 だから、私の受講している「こおつと大学」は私にとっては趣味の領域であるが、実はその聴講生であるスタッフには極めて為になる実学になっているようだ。
 ここ(老人」施設)では私は柳田國男風の通訳もやっていることになる。

2012年1月27日金曜日

こおつと大学

   私はほゞ毎日大学に通っている。
 研究テーマは「消えゆく関西弁」である。
 この研究テーマを思いついたきっかけ(消えゆく関西弁では、ここは「吉書(きっしょ)と使いたい)は・・、小春日和が続いた後の、朝からどんよりとした雨の日に、妻が「雨の日は何故か心もうっとうしいね」と妻の母に言ったとき、母が「ようずみたいやなあ」と答えたからである。
 このようずという言葉、『春に吹く、なまぬるくて、雨を連れてくるような風(かぜ)である。それに吹かれていると頭が重くなるような感じもする。近畿、中国、四国地方で用いられているようだ。(小澤實)』という新日本大歳時記の解説が一番的確なような気がする。
 そして私は「何処かで読んだような気がするが・・」という程度で、この言葉が即座には解らなかった。
 だからそれから、これら“一次史料中の一次史料”である“教授陣”の(生きて)おられるうちに、直接(ナマの発音で)教えてもらえることはなんと素晴らしいことだと考えることにし、義母の外泊の時はその折に、そして実母の施設では教授陣の体調のよいときに、「消えゆく関西弁」を少しずつ教えてもらうことにした。
 授業の内容はというと、
 ・ こおつと~ お礼を言うときは、おおきに はばかりさん やったなあ。これは目上の人には言わなんだ。
 ・ こおつと~ 何処かへ行くときは いて参じます って言うてたなあ。此の頃は言わへんなあ。
 ・ こおつと~ わるさ のことは普通は てんご って言うてた。
 ・ こおつと~ 度々は せんど で今でも一寸は言う。
 ・ こおつと~ 今日みたいな雨の日は 道がしるい て言いました。
 ・ こおつと~ トイレは 何でか知らんが 高野山 やった。 かわや が こうや になったんか。髪(紙)を落とすさかいやったんか知らんけど。そうやった。そうやった。
と言う具合に脈絡なしに進んでいく。
 そして、そもそも、この こおつと とは、ここにあるように、「え~っと とか、はて、どうやったかな」と、一寸迷ったり考える時の感動詞であり、教授陣はもちろん全員解って使っているのだが、横で聞いていた施設のスタッフは見事に全員「そんな言葉は知らない」と言う。
 無理もない。妻も「ナマの言葉として聞いたことはなかった」(妻の母は「使っていた」と言うのだが)と言うぐらいの1級品の消えゆく関西弁だろう。
 研究対象は大きいが、研究期間は極めて限られている??スミマセン。といっても・・・それほど大層なものではなく、私が書き留めなくても、これらのことは既にしっかりとした何冊もの本になっている。
 しかし、この授業を私が受けると、何故か、いつも居眠りの多い教授陣の顔が見違えるように輝くので通学が止められない。


 1月28日追記
 ミリオンさん写真とコメントありがとうございます。
 私は去年6月25日のブログのとおり、本家筋ながらこじんまりとした菅原天満宮の神事で全くかすりもしませんでしたが・・、
 道明寺天満宮の桁違いに大々的な神事で『木』が当ったので・・・見事に大きいのですね。
 この大鷽なら同窓生一同にも好いことがありそうな気もしてきます。
 でも、原発利権に手を組む方々の大嘘はうそかえさせてはなりません。
         前期高齢者って誰のこと

2012年1月25日水曜日

ばばあ の お客様

   冬の寒い夜は深海魚の鍋料理がいい。
 クエ、アラ、オコゼもいいがチョット高い。
 で、しいて言えば、鮟鱇(あんこう)一匹を捌いてもらうのがいい。
 鮟鱇はほんとうに捨てる部位が一つもないし、『鮟鱇の七つ道具』など普通のパックの中では売られていない部位がいっぱいあって、一匹買いは非常にお買得である。
 ただ夫婦二人だけで一匹丸々は多すぎるので、そのときは通常の『鮟鱇鍋用パック』のほかに別に肝だけを更に加えるといっぺんに鮟鱇鍋らしくなる。出来合の1パックだけでは絶対に物足りないと思っている。
 昔の職場の同僚に、「鮟鱇なんかどこが美味いのん? パックには骨ばっかりで、食べられる身が入っていない」と怒っていた人がいたが、骨の周囲の身(ゼラチンのような身)をせせらなければ鮟鱇鍋の意味が全くない。
 「せせる」のを知らないと料理の幅が狭くなるが、ゴマンとある食傷気味のグルメ番組でも「せせる」話はほとんどない。不思議なものである。

ネットから
 せせる深海魚といえば近くの店に山陰・境港からたまに美味しそうな「ばばあ」が入ってくるときがある。
 夫婦で買い物に行ったとき、これを「鍋用に捌いておいて」と頼んで他のコーナーを廻っていくのだが、鮮魚コーナーは威勢よく、「鯛のお客様あ~」とか「鰤のお客様あ~」とか調理の出来たものから呼んでいく。
 そして「ばばあのお客様あ~」と呼ぶものだから、妻は嫌がって私に受け取りに行けという。
 「それは気にしすぎやろう」と言うのだが、「嫌だ」と言う。いやはや。

2012年1月23日月曜日

これも道標

   大和路には天皇陵や寺社が多いせいか、ふとした道端に味のある道標がよく目につく。
 それは単なる石や書が味わい深いだけではなく、「へ~、こんなところに〇〇天皇陵があったのか」と気付かせてくれるという利便性を今現在も持っている。
 だから、そういう現実的利便性を考えると「普通の道の辻々にも道標が欲しいなあ」と思うことがしばしばある。
 なぜなら、より直接的には、UR(旧住都公団)も府県も市町村も、クルマの運転者向けには幹線道路の交差点にそれなりの表示を掲げたりするのだが、歩道には全く感心がなさそうだから・・・である。
 我が家は、駅から歩道を歩いてくるのだが、ところどころに微妙な角度の交差路があり、「これこれのとおり歩いてきて欲しい」と知人に伝えても迷われてしまうことが何回もあった。
 だから、「歩道網(の枝ごと)に名前をつけて道標(表示板)をつけて欲しい」と願っているのだが、辛いことに我が家の直前まで他所の二つの自治体であるので、靴の上から足を掻いている。
 しかも、我が家の家の角から当自治体になるのだが、これも歩道には全く関心を示していない。

 そんなうつうつと溜まった思いから、我が家の角に自分で小さな道標を建ててみた。
 多くの人々が覗いていかれるし何となく納得されているような顔も時々目にする。
 また、「是」(これより)という読み方について庭先で会話が進むときもあるので、「建ててよかった」と心の中で自画自賛している。

 ただ、これを建てた後に白川静先生の本を読んで、『ここは旧字形の「」で行くべきだった』なあと、常用漢字を採用したことを歯噛みしている。
 先生は「(金文(きんぶん)では)であるからしたがうの意味があるのだ」と述べておられる。
 ということは、この字形は、変更してはならない箇所を変更して作った新字体失敗作のひとつと言えよう。ああ己が浅学が情けない。
 まあ、長い職業人生を、法制度にって仕事をしてきた故の選択だったと開き直ることにしよう。

2012年1月21日土曜日

ミコアイサ 再会


ミコアイサ雄
    カモ科アイサ属の冬鳥ミコアイサと再会した。。
 名前の『秋沙(アイサ)』は元はアキサで「秋が去った頃に来る鴨」という意味と書いてある本があったが???
 だいたい、ほとんどの鴨はそうなの(冬鳥)だから、私の頭の中では、この語源に関する説は半信半疑のままである。
 それよりもこの衣装!
 この衣装をお神楽を舞う巫女の衣装(千早(ちはや)というらしい)と重ね合わせて『巫女秋沙(ミコアイサ)』とは、誰が言ったか知らないが先人のセンスはいつもながらお見事。
ミコアイサ雌

 だが、「言葉も世につれ」だから、池の周りに来た人は「あのパンダみたいな鳥は何ですか?」と尋ねている。
 そしてその言い方は、「あの巫女さんみたいな・・・」よりも桁違いに正確に意思が伝達できている。
 これでは遠くない将来、「パンダかも(鴨)」と改名されているかも知れない。

 さて、私の狭~い生活圏だけの印象だが、今年の冬鳥は非常に少なく感じている。去年のブログの多くのお馴染さんとも会えていない。
 一網打尽にされて強盛大国の将軍様たちのテーブルに盛られているのでは・・というようなジョークで済めばいいが、フクシマ周辺の魚を食べて・・・となると、ジョークでは済まなくなる。杞憂であればよいが。
 名にしおば、巫女秋沙には、脱原発と被災者の鎮魂、彼の地の復興のために、その見事な衣装でお神楽を舞うように泳いで欲しい。

2012年1月18日水曜日

ハクキンカイロが出てきた

   日頃使うことの少ない引き出しの奥の方からハクキンカイロが出てきた。
 妻が「捨てるでえ」というので「ちょっと待った」と記録写真を撮ってみた。
 妻はよく憶えていて、その記憶では40年近く前に関東の某市の何処そこの薬局で購入したというが先週にでも買ったもののようにピカピカである。
 入っていた箱のほうはハクキンカイロ用ベンジンアンプル25ml×5の箱で、外側に250円の値札が付いている。
 このごろ流行りのキャッチコピーで言えば「昭和の暮らし展」を見るようで訳もなく嬉しくなってくる。ノスタルジーなのだろうか。

 正確に言うとこれはハクキンカイロ㈱製のハクキンカイロではなく、松下電器産業㈱製の『ナショナル黄金カイロ』である。 
 ハクキンカイロよりもスマートすぎるのが惜しいが、白金触媒式懐炉という意味では同じである。ナショナルカイロは1993(平成5)年4月に全モデルとも販売終了らしい。
 この方式のカイロは一時は使い捨てカイロに押されて絶滅寸前だったが、アラジンやコールマンが製造を続けている上にジッポーが参入したりして、マニア等には「かっこよくてゴミを出さないカイロ」として見直されているらしい。
 このブログを書くので調べてみて驚いたことは・・・、昔のハクキンカイロは始めにマッチで火を点けていたから(このナショナルカイロも電池式点火器があったから)、てっきり細々とベンジンが燃えて温かいのだと思い込んでいたが、全くそうではなく、プラチナの触媒作用でベンジンを二酸化炭素と水に分解させるときの反応熱ということだった。(スタート時に130℃以上の加熱が必要でそのためにだけ着火していたらしい。)・・・知らなかった。
 そして、これは日本人の発明品で1923(大正12)年に世界で初めて発売されたとある。

 ベンジンの紙容器の説明書きのレトロさにも味があるから、もう一度引き出しの奥に仕舞いこんでおけば「お宝」にならないだろうかと皮算用をしている。
 しかし、「お宝」になるにはこの黄金カイロはちょっとスマートすぎるなあ。
 という不純な思惑で・・・縦型の少し四角っぽいハクキンカイロもあったような気がして家中探しているが未だ見つかっていない。

2012年1月15日日曜日

プチ小正月

   1月1日が、お月様が新月である「朔(さく)の正月」なら、15日は初めての満月である「望(もち)の正月」である。
 そして、その「望の正月」が小正月であり、主として宮中よりも庶民レベルでは朔旦正月よりも古くから豊かに祝われてきたというものらしい。・・・と言っても、この「望月」(満月)の話が通じる太陰太陽暦を捨て去りグレゴリオ暦を用いている現代では満月でもなんでもないし、その上に農家でもなかった私の家ではこれといった小正月の行事はしてこなかった。
 母は「小正月は小豆(あずき)のお雑煮やった」と言うのだが、小豆粥のことか、善哉のことか、それとも甘くない小豆雑煮というものがあったのかはハッキリしない。

 しかし、そうだからと言って全く何もしないのは寂しいので、先ず早朝に「とんど」をしめやかに挙行した。
 早朝におこなったのは「清浄な空気に包まれて」と言いたいところだが、隣近所の洗濯物に灰が飛んでいかないようにという、いたって現代的な理由である。
 ご近所に迷惑をかけないよう注意を払っての、チムニー使用の「とんど」だったが、正月飾り関係の諸々をゴミに出したりせずに済んで気持ちがよかった。
 チムニーの上で餅と魚を焼いて朝食をつくると、なにかほんとうの小正月をしているような気になった。

 実母の施設には「小正月ですから」と言って「福笑い」を持参した。
 「目をつぶって置いていってください」と言って開始したのだが、入所者に話が十分通じず、多くの方が目を開けたまま進行していった。
 しかし、指先が思うように動かせない方々には目を開けたままでも思ったところに目や鼻のパーツを置いていくのは困難で、結局「目を開けたままの福笑い」で結構大笑いの飛びかう遊びになった。

 「目をつぶって」でないと成立たないなどと、何ごとも教条的に思い込んだらあかんということだろう。

 帰宅してから、三省堂の年中行事事典の小正月の行事の中に「成木責め(なりきぜめ)」というのがあるのを知った。
 私の無茶苦茶な剪定のために不作だった柿の木に「成るか成らぬか」「成らねば伐るぞ」と唱えて幹を叩いた。そうするものらしい。来年当たりは孫と一緒に叩きたい。

 最後に、道祖神にお酒をちょっぴりかけて、昼食に赤飯と御酒を戴いて、穏やかな1年を念じつつ、つつましい新興住宅街での小正月を終了した。

2012年1月13日金曜日

空飛ぶ宝石箱

    翡翠(ひすい)と書いて翡翠(かわせみ)と読ませるのは「出来すぎ」だが、ツーっと一直線に飛んできて、狙いを定めてホバリングもし、ダイビングもし、小魚の頭を木に打ち付けてからおもむろに食べるなど、ほんとうに絵になる野鳥だと感心する。
 その上に、3頭身とでも言おうか、体に比して頭の大きな動物は幼児との連想で「万人が可愛いと思う」と言われているが文句なく同意する。 
 あのきらびやかな衣装も、空の上の鷹などから見ると水面に輝く太陽の照り返しのようであり、水中の魚から見る腹のダイダイは木の枝であるに相違なく、全く進化論入門のお手本のようである。
 
 出かけたのはそれほど遠くない馴染みの池。
 だが、腕が悪い上に、真冬に使い古しの安物のアルカリ乾電池で出向いたものだから、「やった」というシャッターチャンスに電池切れでことごとく失敗し、ガックリとして帰って来たが、主役の美しさはそれを補って余りある。
 今年の「花鳥風月」第1号としては「もひとつ」だったが、飛んでいるところが撮影できたので掲載した。
 今年中にはヤマセミを撮影したいと思っている。


2012年1月11日水曜日

十日ゑびす 一寸見

   お正月といえば、初詣よりも「えべっさん」の方が心が騒ぎ、初詣には行かなくても「えべっさん」に行かないとその年は何か出だしが悪いような気がするのは関西人の血なのだろうか。

 と言って、強固な信仰のようなものではないので今宮戎には悪いが今年は初めて『京都ゑびす』の宵戎を一寸(ちょっと)見に行って来た。
 京都ゑびすは四条の花街・宮川町に隣接した由緒ある神社。
 「今宮や西宮ほどには混んでなくてええわあ。これからは京都ゑびすにしようか」とは妻の感想(今宮ほどにはチョー混んでいないと言うだけで結構な賑わい・・念の為)。

 福笹は御祓いを受けた基本の吉兆が付いて〇〇円。
 これについては、私は今宮戎の方式が一番好きである。
 今宮戎は、何も付いていない笹を参拝者に無料で配る。
 だから、ある年、妻は立派な笹を得意げに貰って来たが「もっと小さいのんにせんと、笹に応じた吉兆を付けたらえらい事になる」と私が言うのにキョトンとしたことがある。
 今宮戎はこの「素の笹」を持って「商売繁盛で笹持って来い」という福娘たちに吉兆を付けてもらうのである。(ここからは有料)
 残念ながら、西宮も奈良南市も、そして京都もそういう方式ではなかった。(スタートが無料ではないという意味で・・・。)西宮に至っては人工の笹だった。
 重ねて言うが、私は素の笹を掲げて、「商売繁昌で笹持って来い」の喧騒の中を、福を持っていそうな福娘に付けてもらいに行く今宮方式が好きである。

 正面からのお参りのあと福笹を持って次に進んだのは社殿の横。
 えべっさんは耳が遠いから正面から参っただけではダメ。裏に廻ってドンドンドンと裏口を叩いて「〇〇の〇〇だっせ。頼のんまっせ」と大声をあげなければ参った意味がない・・というのが常識。それが京都ゑびすは社殿の横にあった。なお、この習わしは今宮はもちろん、奈良南市にもあったが西宮にはなかったのでがっかりしたことがある。西宮には何の恨みもないが正直な感想。

 帰りに、吉兆のひとつと言ってもいいのだろう、参道に「人気大よせ(にんきおおよせ)」という、「住吉踊り」(住吉大社の無形文化財住吉踊りの祭事の際の「住吉踊り」という飾り物)のような縁起物があった。傘の中に人形がぶら下がっているのだが、手内職のような素朴な味があるので、『危険な時代への予兆を憂う「人気」(ひとけの意)が「大寄せ」になるように』と、小さいのをひとつ付けてもらった。
 客商売の方だろう、直径1㍍はある大傘を隣で求められていた。何処に飾るのだろう・・余計な心配。
 本来は清荒神の布袋さんのように毎年1ランクずつ大きくしていくらしいが、こういう説は不採用にしないと大変なことになる。
 
 帰りの京都の車内を見渡したら、笹を持って帰る人があまり目立たない。大阪周辺の電車はこんなものではないのに・・、やはり、えべっさんは大阪的な商売人の神さんなのだろうか。だが、歳をいくと今宮戎の大混雑には疲れてくる。
 少し歩いて先斗町(ぽんとちょう)に出られる京都ゑびすは結構気に入った。
 えべっさんに因んで、先斗町で美味しい海の幸をいただいた。ふっふっふ


追伸  翌朝、昨日の土産の甘酒をつくって二人の母の施設に持参した。義母は妻の携帯の「ドンドン叩いて参っている」ムービーを見ながら「美味しいなあ」とたっぷり呑んで喜んだ。実母の施設ではスタッフが部屋の全員に振舞った。福笹を振り回して大声で「商売繁盛で笹持って来い」の合唱が始まり、神社以外でいえば日本中で此処が一番盛り上がった十日戎(戎祭)だったのではないだろうか。???

2012年1月9日月曜日

よしの よく見よ

   元日に子供たちとその伴侶たちを前にして年頭の「訓示」?をしたのはよかったが、「お父さんの今年の抱負は何ですか?」と逆に聞かれて言葉に詰まったのは我ながら情けない。
 だから・・・というのではなく昨年から予定していたことだが、日常雑務に埋没しないよう、7日に上野誠先生の初講義を夫婦で受講してきた。

同じ教室の講義風景
ネットから
 「こんな正月早々、しかも3連休の初日に勉強しに来るとは変わり者ですね」というような先生独特のジョークから始まった「よしの よく見よ」と題した吉野と万葉集に関わる講義であったが、内容は『いわゆる「天子即神思想」を疑う』というサブタイトルの、非常に内容の深いものだった。
 その要約は書かないが(書けるほどの理解と整理が出来ていないが)、先生が師と仰ぐ折口信夫は、「大君は 神にしませば」を、万葉学者の99.9%が述べているような「天皇は神であられるので」ではなく「天皇は神のような人であるので」(神が神のような仕事をしても歌にはならないの意)としていることや、昭和17年頃、文学報国会事務局長久米正雄が満州国皇帝溥儀を新聞にアラヒトガミと書いたことが「不敬」(アラヒトガミとは昭和天皇ただ一人の意)として糾弾され万事休したときに、折口が、その当時の時代の『経典』的な扱いをされていた万葉集を引いて「住吉の神もアラヒトガミとされている例がある」と反駁し久米の窮地を救った話を熱く語られたのには感激した。
 総じて浮世離れをした勉強(万葉学)ではあるが、世の中に、なにやら戦前の「不敬」問題に似た、内橋克人氏流にいえば「頂点同調主義、熱狂的等質化現象」(うっぷん晴らし政治)や、グローバリゼーションに打ち勝つためにと社会の管理・統制をヒステリカルに指向する主張の台頭を見るとき、折口学には、なかなかに時代に噛み合った教示があるようにも感じいった半日だった。
 ちょっと澄ましたブログになったが、古文も折口学もほとんど知らずに知ったような感想を書いて恥ずかしい。

2012年1月7日土曜日

海老のお頭

   おせちの必須アイテムではないけれど、少し大振りの海老はお正月らしさを盛り上げる簡単で便利な素材である。
  そこからの連想ゲームではないけれど、以前に見たテレビのドキュメンタリー、「ベトナムでの海老の養殖」は印象深かった。
 それは、マングローブの皆伐、薬漬け、餌の残りや糞や薬による海の汚染、その他途上国での社会問題等々相当深刻なテーマだった。
 もちろん、途上国での養殖事業を「列島改造」的に推進し、その製品を圧倒的に購入しているのは日本である。
 製品と言っても日本に輸出される海老のほとんど全ては頭を取ったブラックタイガー等であり、必然的にベトナムにはおびただしい海老の頭だけが残ることになる。
 そして夕暮れ、ベトナムの女性たちが夕食のおかずにその頭を買いに来るのだと、テレビは報じていた。

 その画面は・・・、ベトナム戦争の出撃基地を提供し、ベトナムの戦後はその地の豊かな自然と労働力を蹂躙しながら「援助」と「投資」を展開する日本国の一員として、ちょっと見るのが辛いシーンであった。
 だからアナウンサーもテーマを掘り下げるべくアオザイの女性にマイクを向けたのだろう。
 きっと、「私たちは朝から晩まで働いても海老の身は食べられない」とか「一生懸命働いて海老の身が食べられるようになりたい」というようなコメントを撮りたかったのではないかと想像する。
 ところがアオザイの女性は言った。「海老は頭が一番美味しいのに、身だけしか食べない日本人って信じられない」。
 申し訳ないがこの一言で深刻なテーマが全て私の頭から跳んでいってしまった。
 けだし名言。モノの本質を忘れ、コマーシャリズムに乗った小奇麗なパターンの料理しか考えられなくなってしまった経済大国国民への正鵠を射た評価である。
 そのとおり、海老は頭が一番美味しい。
 我が家では、甘海老やボタン海老のお造りの際は必ず頭をクシャクシャと食べている。ちょっと塩を振って網焼きにするのも絶品。鮨屋でボタン海老を握ってもらったときには、頭の塩焼きを特注してそこの職人に喜ばれたこともある。
 そういえば、長男が小さいときに志摩で泊まったことがあったが、「伊勢海老のガラのお味噌汁が一番美味しかったから、これから家の味噌汁は伊勢海老にして・・」と注文をつけられた。その味覚は正解である。
 写真の海老たちも、文字どおり徹頭徹尾味わわせていただいた。
 ただ海老養殖の諸問題は何も解決されていない。

2012年1月5日木曜日

初詣は難しい

   「歳をとると・・」などと言うと年寄りみたいだが、歳をとると超有名神社の混雑は勘弁願いたい。
 と言って、あまりに静かなのはお正月にしては寂しすぎるから、ほどほどの賑わいの初詣先を考えるのは難しい。
 今年、子供たちが帰ってしまってから夫婦で詣ってきたのは、そう遠くない当尾(とうのう)の山里の浄瑠璃寺。
 平安時代創建の名刹で、国宝や重文に指定されているからどうのこうのと言うのではなく、九体阿弥陀仏や矜羯羅(こんがら)童子等、気持ちの爽やかになる仏像が迎えてくれるお寺である。

 そして、秘仏・吉祥天女像と併せて三重塔内の薬師如来も特別開扉されていた。
 特に吉祥天女は、五穀豊穣、天下泰平、豊かな暮らしと平和を授ける幸福の女神で、南都では正月に祈願の法要をするお寺が多いそうだ。

パンフレット
 この「豊かな暮らしと平和」の文字がパンフにあるのは・・「なるほど」・・で、当寺の住職であり西大寺の宗務長である佐伯快勝師は、「宗教者九条の会」の呼びかけ人の一人で、その熱心な護憲の行動力には頭が下がるお方である。

 さて、浄瑠璃寺門前には、駐車場の向こう側に「〇〇茶店で土産物を買ったり食事をしてくれる方には無料サービス」の駐車スペースがある。
 いつも利用しているし今日も「うどんでも食べようか」と言って出かけたのだが、茶店はのんびりしたもので、金儲けよりも一家団欒なのだろうか正月休みだった。
 結果として無料で駐車したことになるから、吉祥天女と同じように茶店に向って手を合わせて帰ってきた。

追伸 『今年度中に携帯電話の契約回線数が人口数を上回るという。
ネット社会という情報の洪水の中で 
からだで体験する機会はどんどん減る。
自分の感覚、感性はどうなっていくのだろう。
情報を一定拒絶する断食行(だんじきぎょう)が要るのでは―――。
ご自愛のほど願います。
平成二十四壬辰元旦 快勝』と、師は述べておられる。

2012年1月3日火曜日

まるで普茶料理


素材の味を残しながら
噛まなくても食べられる
ようになっていた
    萬福寺門前の普茶料理は、確か結構なお値段ではあったが、その内容には満足したという昔の記憶がある。
 特に、豆腐と山芋で鰻の蒲焼を作るような、いわゆる「もどき料理」の技術には感心した。単なるイミテーションを超えた「料理」であると納得した。

 実母の施設の「おせち」は、精進料理ではないが、まるでその萬福寺門前の「もどき料理」のような出来栄えであった。
 自前の食堂の作品であることに驚いた。
 咀嚼の能力によって何種類かに分けられているが、咀嚼力の弱い母の場合でも飲み込めるように工夫がされていてかつ華やかで、私が摘まんでも美味しかった。
 365日、寝て、起きて、食べての繰り返しだから食事の美しさと美味しさは貴重である。ありがたい。

 度々書いたが、母の施設は治療が主ではなく文字どおりホームの性格が主となっている。
 だから、うらじろ、お酒、ノンアルコール、若干のおせち等々を持参して、スタッフと相談して新年宴会をおこなったが、ひんしゅくを買うこともなく皆んなに喜ばれた。他所の施設ではどうなのかは知らない。
 スタッフも「今日はマアいいかっ」と言い出して、母を筆頭に何人かは相当程度御酒を戴いて明らかに酔っ払い、例によって母は詩吟もどきを吟じたりして、楽しいお正月行事になったと自讃している。

 母については、私の頭の片隅では「お正月が迎えられるかどうか」の思いもあったし、それはスタッフの方々も同様だったが、節々のこういうハレの行事の本番になると不思議と元気になるから、人間の生きる力というのは検査の数値ではほんとうに測りきれないという感慨を新たにした。
 社会全般ではなんとも祝い辛い正月だが、我が家限りではありがたい正月を迎えられたと喜んでいる。

2012年1月1日日曜日

おせっかいな神


   お正月は年神さまを迎え祀り、その霊力にふれることによって新たな力を戴くから目出度いとされている。
 だが年神さまはACのコマーシャル同様?(ちょっと違うか)、親切でありかつおせっかいなもので、新しい「歳」を1歳置いていく。
 数え歳の思想は年神さまあっての論理である。
 だから歳時記などをめくってみると、新年のお目出度い言葉の隅々から老いの寂しさが覗いていたりする。
 このおせっかいな年神さまは、祖霊神というよりも田の神さまと同じようなマレビトで記紀神話以前の民話的な素朴な信仰だと思っていたが、飛鳥以前に栄えた鴨氏の本貫、葛城の地(奈良県御所市周辺)にその本家のような由緒ある神社を見つけて驚いた。
 地図を見て寄って見ただけだったのだが、それは葛木御歳(かつらぎみとし)神社。御祭神は御歳神(みとしのかみ)。元々の御神体は御歳山(みとしやま)。この社のおさがりの鏡餅がお年玉の起源とも。
 これだけの故事来歴なら商業ベースで相当程度有名にできそうなものであるが、その親切かつおせっかいな性格ゆえか、私の行ったときにはひっそりと静まり返っていた。如何にも年神さまらしい神社である。
 
 2012年。 これだけ地球を汚しておいてそ知らぬ顔で年神さまに御利益を求めるのは不遜だろうから、年神さまには、ちょっとでも好い年にしたいとだけ『誓いたい』。
 今年もよろしくお願いします。