2012年3月29日木曜日

ちょっと怖い「目」

 ミリオンさんから「2月13日のブログを読んだよ」と、ボンボンと写真の鷽(ウソ)を送っていただいたので、ボンボンは早速母に伝達した。
 大宰府のウソは手の込んだ可愛いものだが、見ようによっては、菅原天満宮(23年6月25日ブログ)や道明寺天満宮(24年1月27日ブログ)のウソよりも怒っている。
 そりゃあ、これだけの大災害を経験し、おまけに大嘘が大手を振って闊歩している姿を毎日のように目にするのだから、目の釣り上がっているのも判らなくはない。
 きっと「替えてられるか!」と辟易しているのだろう。
 鷽替え(うそかえ)神事は、『これまでの災厄・凶事を嘘』にしてもらう開(改)運の神事であるという模範解答よりも、『つい吐(つ)いてしまった嘘を鷽に託して水に流してもらう』との解釈の方が馬鹿馬鹿しくてかつ深遠な真理に迫っているようで大好きである。
 模範解答で暮らせる人は自分で歩めばよいのだ。
 凡人は、悲しい後悔を引き摺りながら神仏に「あれはチャラにして」とお願いをして元気を取り戻すのだろう。
 ウソと一緒に元気を送っていただいた。

2012年3月26日月曜日

母の「如来さんの思い出」

   「現存している日本文化といえるものの直接のルーツは室町文化にある」という説、「中でも踊念仏が重要な位置を占めている」という指摘に、私は大いに説得力を感じている。
ネットから
 と、前説(まえせつ)を振ったのはよいけれど・・・、

 そこで、・・と言うほどのことでもなく、かつ現存している宗派の宗教行事を民俗文化として語るのにもためらいがなくもないが、さらには、踊念仏と直接的な関係があるようでもない話ではあるのだが・・・、
 義母が外泊の折に幼い時分の『如来さん』の思い出を語りだした時、それは私の全く知らなかった世界であるにも拘らず、何処かに、不思議に訳もなく懐かしさを感じたのだった。
 『如来さん』それは、河内と大和を中心に信徒の多い融通念仏宗(本山は大阪・平野の大念仏寺)の行事である。
 とつとつと語った義母の思い出は・・・・・、
 秋になると本山から『如来』さんが廻ってきやはるねん。
 カンカンカンカンと鉦を叩きながら黒塗りの箱に入った掛軸が廻ってきやはるねん。
 部屋に仏さんの掛軸をかけて念仏をあげてくれはって、あっという間に次の家に行かはるねん。
 そのとき、箱に仕舞った掛軸を背中に当てて「身体堅固」のお祓いをしてくれはるねん。
 子供らの着物にもしてくれて、学校から帰ったらその着物を着るねん。
・・・というものだったが、
 ネットを見ると、今は出張檀家廻りのようではあるが、そもそもは、良忍上人が鳥羽上皇から鉦を下賜され、諸国回遊を許された遊行にルーツらしきものがあったものらしい。
 清盛、西行の時代である。


ネットから

 その時代と繋がる行事が連綿と繰返され、田の畦道をせわしなく鉦を叩きながら急ぐ坊さん一行のシーンを思い浮かべると、「ああ、これはもう新日本風土記の世界だなあ」という印象が浮かんでくる。

 そして、そういうシーンの一コマに幼い時分の義母がいるのを想像すると、そこに繋がる私もまた、「ああ私も日本人だなあ」となんとなく納得するのである。

歌詞の上でクリックすると大きくなります

 融通念仏宗の良忍上人は日本仏教界の「声明(しょうみょう)」、つまり後に続く日本の音楽を確立した元祖と言われている。
  私の知る範囲では現代のこの行事に音楽的要素はあまり感じられないが、声明から祭文、江州音頭、浪曲、歌謡曲への流れを思うと、義母の話にふと沸いてくる「懐かしさ」の謎が解けるような気もする。

 だが子や孫には歴史教科書の知識としては伝承はできるが、この心象は伝承できないに違いない。
 朝崎郁恵さんの唄うテーマソング「あはがり」を聴いて子や孫は何を感じるのだろうか。
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&frm=1&source=web&cd=1&sqi=2&ved=0CDUQtwIwAA&url=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DRPW3VAtTl6s&ei=psBuT-6ENan-mAWjhNGoBg&usg=AFQjCNEskJdAPJtnr9gsI5t2e4NEc-A11Q

2012年3月23日金曜日

春のメランコリー

   気候のせいで例年よりも遅れていたが、沈丁花(じんちょうげ)の蕾が膨らんできた。
 沈丁花は和名であって中国では瑞香というらしい。なるほど、名は体を表している。
 和名にしても、沈香(じんこう)と丁子(ちょうじ)に比肩するところから命名されたであろうことは容易に想像できる。甲乙つけがたい先人たちである。
 鶯が春を告げる鳥であるように、沈丁花は春を知らせる花である。

 「嗅覚(きゅうかく)は視覚や聴覚に比べて格段に記憶を呼び起こす」と言われているが、ほんとうにそのとおりだ。

 しかも、匂いフェチという言葉があるように(いや、ちょっと違うか)、嗅覚は、記憶と一緒にその頃の「気分」までもを連れて帰ってくるから不思議である。

 私の場合、沈丁花の香りが漂うと「人事異動の季節だなあ」という記憶と一緒にちょっとしたメランコリックな心象風景がよみがえる。
 人事異動の憤懣を訴える相談を傾聴した記憶や、歳がいってからは自分自身が新しい仕事に慣れるまでの不安など、沈丁花の香りの季節はちょっと重たい季節であった。

 しかし、この国の勤労者の現職は、常軌を逸した人員削減や成果主義の下で、私の時代よりも格段に気の重い季節になっているのではないだろうか。
 そういう中で、メンタルの不調を訴える職員が増大していないだろうかと心配する。
 自由主義などという美名?の下に市場原理主義者が大きな顔をしだしてから、この国は確実に劣化していっているように私は思う。
 その昔、私は講演の際に「メンタルの患者は坑道のカナリアですよ」と繰返してきたが、残念ながら私の指摘は当たっていたように思う。

 此の頃思うことは・・・、悲しいけれど、人は往々にして自分が弱者になったとき、「だから助け合わなければ」と考える一方で、自分だけが助かろうと試みたりもすることである。あの時(蜘蛛の糸)の杜子春(とししゅん)のように。
 人員削減や成果主義は、単なる業務の問題に止まらず、人間(人生)を蝕むという側面を持っていることが恐ろしい。
 利潤や効率の呪縛から心が解き放たれなければならないのでは・・・などと言うと、他人(ひと)は時代遅れの戯言と嘲笑(わら)うだろう。
 かく言う私も、偉そうには言えない凡人で、どっぷりと「その時代」に浸かって来たのだが、しかし、政府やメディアの、“信じて疑わないその種の主張”の大洪水を目の当たりにすると、「あえて逆らってみたい」と前期高齢者は反省しつつ思うのである。

2012年3月20日火曜日

布袋さん と 蕗の薹

   七週間が経過したので、清荒神(きよしこうじん)へ布袋(ほてい)さんをお返しに行ってきた。
 考えようによってはただの土人形ではあるが、「燃えないゴミ」に出すのはやはりためらわれる。「へえ~長谷やんがそんなこと言うか?」と笑われても仕方がない。
返納した布袋さん
 清荒神のHPには「お寺ですか神社ですか?」というQに対して「仏も神も祀っています」とのAがあり微笑んでしまうが、実際には修験道の祖の役の行者もおられるし、荒神は道教の神がルーツらしいし、その上に眷属(従者)である布袋さんがいるのだから、民俗学的には楽しいお寺(神社?)である。

 さて、その布袋さんは、三宝荒神さんの眷属(従者)らしいが、私の家ではご本尊の大日如来や三宝荒神さんよりも親しく付き合ってきた。
 いつの頃からの我が家のしきたりかは知らないが、祖母が毎年清荒神に参るのに孫の私(小学校低学年)が杖代わりに付いて行き、土人形の布袋さんを(毎年ひとつずつ大きな寸法の布袋さんを)買い求めて古い布袋さんと交換していた記憶がある。
 7年周期で新しい布袋さんと取り替えるというものだったが、どういうわけか私の小さい頃は相当大きな布袋さんがあったから、2段階ずつ大きな布袋さんを購入していたのだろうか? それとも7年以上の周期だったのか?もう判らない。
 近年は、ご無沙汰をしていたので交換が数年に1回ではあったが、それにしても7体の布袋さんが我が家の竈を守っていてくれた。
 布袋さん ありがとう。

 清荒神の参道はしばらくぶりであったので帰りはのんびりと歩いたが、「そういえば南天の箸を買ったことがあったなあ」とか「炭酸せんべいも買ったことがあったなあ」と思い出す程度で、「こんなものだったのかなあ」という印象しか残らなかった。
 昔々の参道は何かもっとわくわくするような妖しい雰囲気があったのに、参道が変わったのか、当方の心が変わったのだろうか。

 『さん志ようや本家』で蕗の薹の佃煮と葉唐辛子の佃煮を土産に買って帰って、その夜は戴き物の麒麟山で、少しばかり昔を振り返りながらお酒を呑んだのだが、この佃煮の予想外の美味しさには目が飛び出た感じがする。
 こんなにしっかりと山菜の香りが残っている佃煮は久々だ。
 門前の土産物屋と言ってよい店でこんな美味しいのは予想外だった。
 よい一日だったような気がする。

2012年3月18日日曜日

3日後の海

   3月11日の発売前に申し込んでおいた沢田研二のCD「3月8日の雲」が17日に届いた。
 言うまでもなく、普通には歌手はメディアに使っていただいてナンボである。
 そして、テレビに代表されるメディアのスポンサーは残念ながら「庶民」ではない。
 さらに、国内市場を見限った大企業の広告費が減額されている今日、それに反比例してメディアのスポンサーと権力に対する媚び方は目を覆いたくなる様相を示している。
 そういう環境の下で、沢田研二が3.11と真正面から向かい合った、いささか尖ったCDを発売した。
 正直に言おう。ジュリーはエライ。
 
 子や孫の将来を考えると「さよなら原発」以外の選択肢はないと私は思う。
 世の祖父母だって、素直に声を上げていいのだ。
 少し尖った老人バンザイ。
 もう一度言おう。ジュリーはエライ。 

 さて、そのCDだが、収録されている4曲とも沢田研二の詞である。
 詞としてはドコか滑らかでなく、出来がよいかどうかは解らない。
 しかし、その、ある種そのタドタドシサが、やくみつるの「小言・大言」同様の臨場感をビンビンと感じさせる。
 例えに出したやくみつるは、昨年3月20日の4コマ漫画「やくみつるの小言・大言」で、思考が停止したまま漫画を描けなくなったやくみつる」を4コマに描いて終了した。
 それは歴史に残る漫画だと私は体が震えるほど感動した。
 そうだ、訳知り顔にエネルギーの心配をするのは止そう。
 聖人顔で瓦礫の受け入れを語る前に冷静に考えよう。
 そして、素直に「怖くて心配だ」と言おう。
 原発は利権と核開発の落とし児だと率直に指摘しよう。
 今夜は、ジュリーに煽られて言い過ぎただろうか。

2012年3月16日金曜日

ビジュアル雑誌の歴史に学ぶ

   この間から、十三塚や高野山、真言密教、高野聖、踊念仏、山伏などの文献を読みに国立国会図書館関西館に通っていると、3月中旬から館内で「ビジュアル雑誌の明治・大正・昭和」展が開催されだした。
 折角の機会であるのでフロアレクチャーにも夫婦で参加して観覧した。

 展示の名前どおり、知らなかった数々の雑誌や一部には懐かしい雑誌もあり、解説とともにそれは楽しいものだった。
 そして、妻が印象に残ったと言ったのは戦時中の国策プロパガンダ雑誌の「FRONT」だった。
 国内の紙も印刷術も疲弊して、一般の雑誌なども全く生彩を欠いていた時代(1942年~1945年)に、上質の紙と印刷で、何ヶ国語(創刊号は15か国語)もで出版されていたというのは聞き始めであったし、それよりも、表紙の写真にしても、単純でポンチ絵的な帝国主義賛美のデザインというよりも、テーマは別にして、現代でも通用しそうなレベルの高いポートレートではないかとの印象は同感だった。
 そうか、戦時下の為政者はそれほどまでにプロパガンダを重視していたのか。

 そんな思いで帰宅してからネット上のフリー百科事典ウィキペディアを開いてみると、「プロパガンダ技術の種類」として次のような記述を見つけた。
 1、 レッテル貼り― 攻撃対象となる人や集団、国、民族にネガティブなイメージを押し付ける(恐怖に訴える論証)。
 2、 華麗な言葉による普遍化― 対象となる人物や集団に、多くの人が普遍的価値を認めているような価値と認知度を植え付ける。
 3、 転移― 多くの人が認めやすい権威を味方につける事で、自らの考えを正当化する試み。
 4、 証言利用― 「信憑性がある」とされる人に語らせる事で、自らの主張に説得性を高めようとする(権威に訴える論証)。
 5、 平凡化― コミュニケーションの送り手が受け手と同じような立場にあると思わせ、親近感を持たせようとする。
 6、 カードスタッキング― 自らの主張に都合のいい事柄を強調し、悪い事柄を隠蔽する。本来はトランプの「イカサマ」の意。情報操作が典型的例。マスコミ統制。
 7、 バンドワゴン― その事柄が世の中の権勢であるように宣伝する。人間は本能的に集団から疎外される事を怖れる性質があり、自らの主張が世の中の権勢であると錯覚させる事で引きつける事が出来る(衆人に訴える論証)。
 以上の論の出展は知らないが、ある種妥当な論だろうと私は思う。
 そして、それは見事に某市長の立ち居振る舞いと重なって見えてくる。
 現代のプロパガンダの専門家といえばマスコミと広告代理店と芸能プロダクションだろうが、なるほど芸能プロダクション所属の市長だけのことはある。
 「FRONT」的なプロパガンダに熱狂した時代の終焉がああであったように、現代の異様なプロパガンダが目指している先も推測できる。
 「FRONT」の時代は終焉までにおびただしい犠牲が積み上げられた。
 その歴史に目を瞑るものは未来に対しても(比喩として)盲目である。

2012年3月13日火曜日

地面の見えた自動車

   スバルが「軽自動車の製造を止めた」という新聞記事があった。
 個人的にはちょっとした感慨がある。
 30有余年前最初に乗ったマイカーがスバルの軽だったからである。
 それは今は亡き友人が職業訓練校で働いていたとき、教材で使った自動車を交換するから税金等の実費だけでいいというので払い下げてもらったものである。(要するに価格は0円)
 有名なスバル360ではないが、1969年製の後部空冷エンジンのスバルR2という8~9年モノの中古であった。
 なお、この時期のR2シリーズは1972年に生産中止になっており、後のR2とは別物である。

 空冷エンジンのため、冬季の朝にエンジンをかけると街中が真っ白になった。
 さらに、夏季は走行中に床下をガバッと開けることが出来、前にエンジンがないものだから全くクーラー不要だった。
 取り付けた扇風機は近所の子どもたちに「このクルマすごい!」と大人気だった。(もちろん子どもたちの親のクルマにはクーラーがあったから・・・・扇風機は珍しくてカッコよかった)(床下がガバッと開くし顔には扇風機・・で全く不満はなかった。)
 何もかもがシンプルで、メカに人間味があった。
 先日、ひげ親父さんから「復活~山田洋次・SLを撮る~」というDVDを貰ったが、そこに通じる暖かさが残っていた。(余談ながら、SLはボイラー検査に合格しないと使用できなかった。知らなかった。燈台下暗し)
 次に買い換えたクルマからは「床下が開いて走りながら地面が見える」という贅沢はなくなった。
 次の次のクルマからは三角窓がなくなった。
 次の次の次の車に代えたときには「チョークはどこ?」って聞いて呆れられた。
 去年買い換えた時には「サイドブレーキはどこ?」と言って笑われた。
 便利にはなった。便利にはなったけれどSLに似た人間っぽさは今はない。
 電気製品同様クルマもブラックボックスになりつつある。
 だが、ここで止れば時代に取り残される。
 で、必死になって子どもたちの会話に遅れないようにしている。ふ~。

2012年3月10日土曜日

都邑を守る思想

   7日のブログで「十三塚は悪霊の侵入を防ぐ防塁ではなかったか」と書いたが、村の入口に土を盛り、石を積み、木を立て、陰陽の石製品や石像を刻し、あるいはいわゆる注連縄(勧請縄)を張って村の安寧を鎮護しようとする信仰を想像するのはそんなに難しいことではない。

写真1
 現に、この21世紀の現在も、この南yamashiroの一部集落には勧請縄の風習が立派に残っていてある種感動をさえ覚える。
 それが道路交通法上如何に解釈されるかなどと言うことは実につまらぬ議論である。

 写真1は、先日オオタカの記事を書いた木津川市の鹿背山地区であり、我が家からもそれほど遠くない。
 村の入口の道路上に堂々と掛
写真2
けられていて村を不浄のものから守っている。

 写真2は、笠置町の飛鳥路地区へ向う木津川の沈下橋。車で行くのはちょっとスリルがある。

 写真3は、その橋を渡ったその地区の勧請縄で、道の上から布目川をまたいで掛けられているのを村外に向って撮影した。
写真3
 陰陽の縄細工などは即物的だと軽蔑せず、素朴でおおらかな信仰だと微笑みたい。

  それ以外にもいろんな縄細工や木製品が吊るされていたが浅学にして一つ一つの意味は判らない。
 こういう縄の細工物は地方地方でいろんな言い伝え(理屈)があるようで、①大きなわらじ等を吊って厄鬼を威嚇する。②米俵等を手土産に厄鬼に引き返してもらう。③で邪気を掃き出す。④鍋つかみで福をつかむ。⑤子孫繁栄や豊作に関わる諸道具?を吊るして祈願する。等々という先人の素朴な知恵や願いであるようだ。
 とすると、未来に、この勧請縄の真ん中にガイガーカウンターを模した藁細工が吊るされることのないことを祈りたい。

   あの日から1年が経過した。
 真実は閉ざされたままだ。
 彼の地の『国民』は報われていない。
 「風化を待てばよいのだ」と意図的であるかのようだ。
 現代の厄鬼は勧請縄では防ぎきれない。
 で、マイカーの後ろ窓に手づくりステッカーを取り付けた。
 これは私のささやかな勧請縄である。
 そしてほんとうの意味で現代版勧請縄であるに違いない「世論の鎖」の呼びかけである。

2012年3月7日水曜日

畏れられたのは大和か河内か

   2月25日のブログで生駒の「十三峠(じゅうさんとうげ)の名前の由来は、峠にある重要有形民俗文化財の十三塚にある」と書いたが、この十三塚(13個の土饅頭)というものがいったい何なのかがもうひとつ解らない。
 柳田國男氏が昭和23年に「十三塚考」を著されているがネットの古本で15,000円ほどとあって思わず手を引いた。
 そこで、国立国会図書館関西館で「十三塚考」と「柳田國男集定本第12巻」というのを3日かけて読んでみたが結論的にはボンヤリと解っただけだった。・・というか、そもそも柳田國男氏が明治43年に研究を始め昭和23年に著したその結語が事実上「未完」で終わっている。
 学者としての誠実さに感動だが疑問は解決しなかった。

 そこで、好き勝手に印象に残った考えを、その後読んだその他の諸説も参考にして羅列してみると・・・、
 多く言い伝えられている古墳、墓、供養塔等の説は考古学的に否定されている。了解。
 外蒙古の峠に、少なくない「十三オボ」(オボガ=塚)があることから、元々は古い道教(後にはチベット仏教)に起源を持つ、あるいは共通する信仰がありそうである。ええ~。
 というか、特異なものと考えるよりは、アジアに普遍的な思想の一つの表現なのだろう。これは納得。
 道教等アジア的な普遍的思想は密教に色濃く収斂(しゅうれん)されて我が国にももたらされている。そうそう。
 そして、筆まめな中世以降の僧侶の記録に一切残っていないにも拘らず、全国的に分布していることからすると、若干アウトサイダー的な一群の宗教的伝達者によるかなり一般的な教義に基づく壇(祭壇、鎮壇)だろう。なるほど。
  江戸初期に貝原益軒氏が「真言宗の十三仏の供養塚か?」と書いていて、反対に言うと江戸初期には既にその本質が不明になっていたことになる。柳田國男氏は否定的らしいが、貝原益軒先生のこの示唆は軽視できない。うんうん。考古学的に供養塚ではないのだから。若干ずれてはいるが。
 結論的には、真言系の13人?の佛、いわば佛のオールスターを国の境(入口)に祀って、厄鬼(御霊)の侵入を防ごうとする中世密教系高野聖の造った壇(一種の曼荼羅)だったのでは・・・。という辺りだろうか。
 高野聖は名前と違って時宗の信仰者だったらしいし、他の寺社の勧進聖や山伏、踊念仏の遊行の僧と渾然一体として分かち難かったらしい。
 そして、信長に弾圧されるなど、江戸初期には衰退していたらしいから、仏教本流の僧の記録にないこと、江戸初期に既に世間で忘れられていることとツジツマが合う。
 論理的ではないがこれが私が感覚的に落ち着いた結論である。
 結局、高野聖的な呪術者を想定した文献は見つけ得なかったが、当たらずと言えども遠からずではなかろうか。
この絵自身は墓とされているが
 この辺は非英雄中世史に異彩を放つ網野善彦先生や仏教民俗学の五来重先生に研究しておいて欲しかった。
 一遍聖絵にも屋外の塚の周りで「唄う念仏」があったし、呪術のオーラを発散させていた聖に導かれて、村人が村の境に結界を張り、厄鬼の侵入を防ぎ、悪霊を村の外に払い出した宗教儀礼の祭壇を想像することはそんなに無理のないことと思われる。

 とすれば、次に沸き上がった疑問は、生駒の十三峠の十三塚は大和・平群の人々が築いたのか、河内・八尾の人々が築いたのかという疑問。
 八尾の地名はここを「神立(こうだち)」というから八尾の人々が精神的にこの地を神聖視、重視したとも思えなくもないが、中世のこの地をツラツラ考えると、純朴な大和・平群の百姓が、先進地である河内・八尾の人々のもたらす商品等を喜ぶ一方、その(先進的な)力を畏怖して、国境(村の入口)で、村の鎮護を神仏に求めたような気がしてならない。
 具体的イメージとしては、疾病、害虫、牛馬の病等々は街から村へ侵入するものだから。
 この印象は、義母の「こおつと大学」での語りの呼吸からもそう感じる。
 それ以上の根拠はないから、大和の人間の河内に対する偏見でないかと言われると困るが・・・。 
 もちろん、身分差別を肯定するかのような思想とは一切関係のない中世史の探求である。
 八尾辺りに因縁のある方々の御教示(コメント)を乞う。

2012年3月4日日曜日

ミズボウ万歳(ばんざい)

   読者の皆さんはミズボウ(水ガニ)をご存知でしょうか。
 私がミズボウ(水ガニ)を知ったのは大昔。
 福井の「ドラゴン」という先輩から教えていただいた。
 ミズボウ(水ガニ)とは、脱皮間もない越前ガニの呼び名で、なにしろ安くて美味い。
 「だから昔福井へ行ったとき土産に買うて帰ったのは美味しかったやろ」と言うのだが、妻は「そんなことあった?」と愛想がない。

 ・・・・・・で、天に唾したというか、言いだしっぺの責任上証明責任を果たさなくてはならなくなった。
 ところが、この証明は至極簡単・・・ネット社会とはエライもので、今ではパソコンに打ち込めば翌日の朝にミズボウ(水ガニ)が到着する。
 「こんな便利さに馴らされすぎていいんだろうか」と思わなくもないが、技術の進歩を利用しない手はない。
 注文したのは「一部足落ち」を含む特価品であるが、生きたままの「大」4杯が到着した。
 孫には見せただけ(写真)だが、長男夫婦と4人で心ゆくまで堪能した。
 ミズボウ(水ガニ)は1月中旬から3月までの期間限定品。タイミングを逃すと早くても遅くても食べられない。
 脱皮間もないので身はしまっていない。ただし、スーパーの特価品の痩せてパサパサしたカニとは全く違う。味はよい。
 モノは考えようで、しまっていない身というのは言い替えると、みずみずしくマイルドで、何しろ食べやすい。足の身なんかスポッと抜けてくる。
 妻にも長男夫婦にも大好評だった。
 ミズボウ万歳。

 それはそうと、先日、近所の某大手ショッピングモールに「松葉ガニ」とだけ表示して置いてあったカニを指で押したらペコペコだった。あれはどう見てもミズボウだ。
 上述のとおり私はミズボウを礼賛する。
 だが、それと、大手企業が単なる松葉ガニと表示して売ることとは、問題が別である。
 松葉(越前)とミズボウでは卸価格が断然違うのだから、はっきり言えば、不当表示の可能性が高いと私は思っている。
 ミズボウだと知って美味しく食べるのと、この松葉は痩せていると思って悲しくなるのとでは雲泥の差があるから、情報は正確に公開してもらいたい。
 繰返すが、越前ガニのミズボウは絶対に幸せを届けてくれること間違いなし。ミズボウ万歳。

2012年3月2日金曜日

肉なんか食べたことない

ネットから
   バターもチーズもあった奈良時代の高級貴族の豊かな食材ぶりは数々の木簡で驚かされるが、主役であった貴族たちが平安京に去った後にこの地に残った農民はどんなものを食べていたのだろうかと義母に尋ねてみた。新こおつと大学の始業である)
 時は下って昭和の前半頃の“肉けの食材”に関する“娘”の記憶である。
 「自分とこの畑で採れた野菜しか食べたことない」「肉や魚なんかひとつも食べたことない」と言い切っていた義母であったが、ビールがまわるうちに、「どじょうたにしは美味しかった」「からす貝はお汁に入れた」「沢がにザリガニイナゴ蜂の子はおやつやった」「田圃の虫捕りに入れておいたを味噌汁にした」と、確かにそれは田畑の周辺で自給したものばかりだが、現代風に言えば結構な珍味が揃っていた。
 これ以外の肉けの食材はというと・・・、先日のブログで十三峠を書いたが、「おおこ(天秤棒)に籠をぶら下げて河内のおっさんが峠を越えて来た」「身欠きにしんころエイの肝を運んできて玉子と交換した」というのもあったらしい。
 そして、年に数回ふもとのよろず屋でエソを買うて美味しかった」と言い、「特別の日のご馳走は絞めたの料理やった」と語ってくれた。
 確かに、成長期にそれらしい“今風の”肉や魚を食べてはいないが、「どじょうイナゴで90何歳まで来ましたねえ」と言うと「ほんまやなあ」とちょっと誇らしそうだった。

どじょう・・・・・・・玉子とじは美味しかった。(玉子を食べられるのは余程のこと)。
たにし・・・・・・・・さっと湯掻いて身をとり出して野菜と煮た。
からす貝・・・・・・お味噌汁に入れた。
沢がに・・・・・・・湯掻いてバリバリとそのままおやつに食べた。
ザリガニ・・・・・・湯掻いておやつに食べた。
イナゴ・・・・・・・・串に刺してカマドの灰の中に入れ、醤油を付けて食べた。
蜂の子・・・・・・・アシナガバチの子。そのまま食べたり蜂の子ご飯にした。
鯉・・・・・・・・・・・味噌汁(鯉こく)にした。
身欠きにしん・・野菜と煮た。
ころ(鯨の皮)・・・・野菜と煮た。
エイの肝・・・・・・きらず(おから)を作った。大好きだった。
エソ・・・・・・・・・・煮魚にした。
鶏・・・・・・・・・・・すき焼きにしたが、絞めた祖父は絶対に食べなかった。