2011年10月28日金曜日

ヤマボウシの秋

 6月4日のブログでその花を愛でたヤマボウシ(山法師)だったが、それが木枯らし一番の前後から急速に落葉していっている。
 昨日まで「いつまでも暑い暑い」と文句を言っていたのだが、気がつけば季節の移ろいの速さはすさまじい。ちょっ ちょっ ちょっと待ってくれ。
写真1ヒヨが完食したヤマボウシ

 このヤマボウシ。つい最近まで大きく綺麗な実が美しかった(過去形)。
 だから、丸々と美味しそうな実を「いつ摘まんでやろうか」と思っているうちにヒヨドリに見事に坊主にされてしまった(写真1)のは、今秋一番の悔恨事である。
 そもそもヤマボウシの実が食べられるなんて去年まで知らなかったのを今年本を読んで知って、ひそかに楽しみにしていたのに・・・。
 


写真2常緑ヤマボウシ月光
  ただ、こういう事態を想定したリスクマネージメントで植えていたわけではないが・・・、あまり期待をしていなかった背丈1㍍ほどの「常緑ヤマボウシ月光」の幼木の方が遅れて熟してきた(写真2)ので、お陰でほのかに甘いその実を今は日々楽しませてもらっている。
 決してジューシーな果物とはいえないが、文字どおり野趣という語が似合いそうな素朴な味で、小春日和の庭先で口にすると、何んとはなく嬉しくなってくる。
 周りでは、ヒヨやシジュウカラが虎視眈々と狙っている。
 「共生」とは言うが、自然界は偉大でかつ難しいものである。



2011年10月26日水曜日

高砂


 NHK朝ドラのカーネーションは、この後、父善作が根岸に対して糸子への洋裁の授業の代わりに根岸に謡を教えることとなるらしい。
 ところで、いろいろなジャンルの歌にはそのジャンルにふさわしい発声方法があり、テレビドラマなどで民謡や詩吟のような声で謡曲が謡われたりすると鼻白んでしまう。小林薫の好演を期待したい。
 今はいない義父は謡が得意で、まさに謡らしい発声ができていて、結婚式での高砂などは聞いていて心地よいものだった。もちろん私たちの結婚式でもそうだった。
 朗々たる「高砂や、この浦舟に帆を上げて。この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で汐の、波の淡路の島蔭や遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり」は、お能の知識を欠くと「なんのこっちゃ」という詞であるが、それでも何となく「おめでたい」気分になったものである。
 という解説ではあまりに軽薄なので「林望が能を読む」からつまみ食いをすると・・・、
 本曲には、私どもの「民族の記憶」が豊かに息づいている。
 「松」は、本曲の大主題であるが、その形而上的な意味は、すなわち神の憑り代(よりしろ)にほかならない。
 その松が、ここでは「夫婦松」として造形が施されている。
 そして、老体は、長く持続せる生命力で、それに「あやかる」呪力であったに違いない。
 こうして、幾重にもめぐらされた民俗としての祈りが、後段、若々しい生命力を備えた神体として出現するのである。
 とある。
 で、「なんとはなく」なるほど意義深いらしいと納得している。
 住吉大神を巡る古代史の疑問はいったん脇に置く。

2011年10月25日火曜日

乾杯

 昨日は母の入所している施設へ「愛燦燦」と「瀬戸の花嫁」を持っていって早朝合唱団を開いた。
 時々歌詞の世界が頭の中に広がって、孫娘が遠くへ行ってしまうと思い込んで涙ぐんだりするのだが、「これは歌の歌詞ですよ」と言うと「あっそうか」と戻るのが可笑しい。

 今朝は、「ちょっと難しいのを持ってきましたよ」と言って、昨日約束してあった長渕剛の「乾杯」を配ってみたところ、母は90%近く自分流に編曲して「エア熱唱」を行なった。(エア=声に出さずに心の中というか口の中での熱唱)
 そして、「これは男の子の歌やけど、感極まるわ」と言って泣いてしまった。
 ほかの入所者の方も「歌詞がいいわあ」「好きな歌だわ」と仰られ、「憶えたいからこれからも何回も持ってきて」と注文をつけられた。
 皆の期待に応えようと気持ちを込めて歌ってみたら、こちらまで胸がつかえてしまった。
 耳蛸だろうが、老朗介護の一番の薬は感動・感激だと信じて疑わない。

2011年10月23日日曜日

段取り八分

 度し難い親馬鹿の独白であるが、私の子は二人ともフロイト先生やユング先生の(心理学でいう)「父親殺し」を演ずることもなく、正直に言えば少々寂しさを感じさせるほど、とっくの昔にさっさと親離れをしていった。
 そして、「親はなくとも子は育つ」というか「子は親とは違う方法で山登りをするものだ」という名言を実感させられるように、いつの間にかそれぞれ一端の大人の真似をするようになった。
 22日に開催された娘たちがプロデュースしたパーティーは、あちこちに気配りと段取りがされていて感心してしまった。
 妻が「あれは私の〔段取り八分〕(だんどりはちぶ)の背を見て育ったからだ」と言うのだが、十分に親を追い越していってしまった感がある。
 ちなみに〔段取り八分〕とは、その昔仕事も人格も立派な上司から教わった言葉で、誤解があるかも知れないが、工事や製造や行事を問わず、段取りがしっかりできればその企画は八割方仕上がったも同然・・何ごとかを確実に仕上げるためには段取りに八割方の努力を傾注せよ・・といったような教訓と勝手に理解している。
 おまけに今回は、そういう段取りでは如何ともし難い天候まで味方に付けてしまった強運にも脱帽した。

 娘たちが企画と準備をしたパーティーの成功を祝って、今夜、46年前の年号ワインのコルクを抜いた。

2011年10月21日金曜日

猿頬貝を覚えてますか

 10月10日のブログの続きになるが、猿頬(サルボウ)貝について、親切な堺の同窓生から「たしかにサブロガイって言っていたよ」との証言をいただいた。

 小林利郷著「ちぬの海」(和泉史談会)でも、著者が昭和63年に当時81歳の泉大津漁協の寺島翁から「サブロウガイが・・・ぎょうさんいてた」と聴取っている。
 ただ、辞書的なものでは、国立国会図書館関西館で川名興編「日本貝類方言集」に「有明海ではサブローガイ」というのを見つけただけだった・・・。
 泉州弁の「サブロ貝」が辞書に出ていない理由をつらつら考えると、・・・・『「ざだら変換」という訛りは多くの場合、文字では「からだ」と書くのに「かだら」と発言する』(前のブログの同僚がそうだった)という性格のものなので、辞書をはじめ文字の世界では「サルボウ」だが発音では「サブロ」ということだったのではなかろうか。正確にはわからない。堺市立図書館からは回答がない

 さて、こんな貝の話なんか現在の臨海大工業地帯の堺市ではあまりにリアリティーに欠ける話かもしれないが、私たちが小学生の時、漁師の網元の子の船の陸揚げを手伝っていたときには、トロ箱いっぱいのサブロガイを褒美に貰って、家中いや町内中大騒ぎをして分けあったこともあったのだ。
 そして同窓生によると、昭和2~30年代の堺の浜側では「家の前でムシロを敷いてサブロガイの身をむく内職があった」し「サブロガイは豆腐や大根と炊いたら美味しかった」という補足的な記録もいただいた。

 ちなみに平成の現在、赤貝の缶詰、庶民的な鮨屋の「赤貝のにぎり」は通常「猿頬貝」であり、彼奴はネームバリューはないが奥ゆかしい実力派である。
 はたまた、赤貝を詐称する大ペテン師か・・・・。


  21日12時補記
 堺市立図書館から丁寧な回答があったが結論的には「堺における猿頬貝の呼称について」の文献や資料はないようだった。
 わずか50年ほど前の事実が確かめられない。
 過去(歴史)というものは、このように淡く消え去るモノなのだろうか。少し感慨深い。

2011年10月19日水曜日

乙女心は消えない

 『老朗介護の音楽療法は「お富さん」から』・・と6月21日等々のブログに書き連ねたが、今日はきっぱりと訂正をしようと思う。
 私は毎日、8時30分頃に介護施設に着き、母の朝食を支援した後、実際の要介護度が比較的軽度の方々数人と「ゆめの部屋早朝合唱団」と全く勝手に自称して唄を歌うことにしている。
 「コーラスクラブのほうは(子供っぽい)易しい唄ばかりでつまらないわ」と仰る方もいて、この数人の間では私の「早朝合唱団」は「正しいコーラスクラブ」よりも人気がある。・・メンバー?なのだから当り前か??
 「どの方はどんな唄が好みか」や、その日の気候などをいろいろ考えて「今日はこんな唄を持ってきました」と始めるのだが、そんな中で意外に好評だったのが「女ひとり」。
 ♪ 京都 大原 三千院~ だった。
 「歌詞がいいわあ」「思い出すわあ」「こんな(歌詞のような)ときもあったわ」という皆さんのリアクションには正直に言って驚いた。
 ほんとうに驚いた。
 失礼ながら、90超の入所者がこんな風な喜び方をされるとは予想外だった。
 冗談気味に「乙女時代を思い出しましたか?」と尋ねてみると、冗談抜きの笑顔で「ええ」と返ってきた。
 ・・・・・・・・・。
 老人施設に入所していても、単なるお婆さんでもなければ幼児でもないのだ。この「合唱団」に加われない方も含めて、きっとどこかに乙女心は不滅なのだろうとつらつらと考えさせられた。
 読者の皆さま、ゆめゆめ乙女心を疑うことなかれ。
 いくつになっても、恋に疲れた想い出は切なく残っているのだ。

2011年10月18日火曜日

昴はさざめく Ⅱ

 今夜は、見事な・・とは言えないが、久々の星空だった。
 そこで、9月25日のブログで感激を
綴った昴を撮ってみた。
23.10.18 21:10 東の空
 もう一度言うが、昴は三等星以下の目立たない星の集まりである。
 しかし、明るく判りやすい数々の星座を抜いて、洋の東西を問わずこれほど多くの人に愛されてきた星もないようだ。
 それほど、昔の空が綺麗だったのだろうか、それとも、先人の感性が豊かだったのだろうか。きっと両方だったのだろう。
 片や私の過ごしてきた時代はというと、ずーっと空が汚れ、星を愛でる心の余裕が持てない時代だったように思う。
 今私は、星空を眺めながら生き急いでいる。

2011年10月17日月曜日

ヒッチョー

 京都のお人は京都弁を訛りなどとはこれっぽっちも思っていない。・・と巷間言われているが、10月10日のブログの続きを素朴に書いてみたい。七条についての「???」のことである。
 大原穣子著「京ことばの辞典」にはハッキリと(京ことば・・では)「七はヒチ」と書かれているし、京都府立図書館に問い合わせ、国立国会図書館関西館で確認したところ、中井幸比古著「京都府方言辞典」、真下三郎著「京ことば集」、井之口有一・堀井令以知著「京ことば辞典」、相馬大著「京ことば」に、京都旧市内のことば(京ことば)は「七条 ヒッチョー」とある。

 そこで、「おけいはん」の京阪電車。・・・お役所辺りがどう言おうと、と言っても市バスの停留所は「ななじょうけいはんまえ」らしいが・・・・、京阪の七条駅に「ヒッチョー」とフリガナを振れとは申しませんが、せめて「ヒチジョウ」と振られたら如何と強く言いたい。いやいや、やっぱり正しくは「ヒッチョー」かな。

 言うまでもないが、阪急は「十三」を「ジュウソウ」、「上牧」は「カンマキ」、JRは「放出」を「ハナテン」と、地元の発音どおりに表示し発音している。至極当り前のことである。
 先のブログにも書いたが、上方唄の〔松づくし〕は東京の人が唄うときでも「七本目(ひちほんめ)には姫小松」と唄うとある。

 連想ついでに、関西の鉄道の駅名のアナウンス。どうして地元のアクセントでないの? 通常それは植民地に対する仕打ちじゃないの・・・。
 アクセントが違ってもいいのは ♪放出中古車センタ~ だけでしょう!

2011年10月15日土曜日

松茸なんか

 ラジオで桑原征平と桂吉弥が「松茸かシメジか?」とリスナーに問うていた。
 「そんなの文句なしに松茸やろ」と夫婦で言うと、外泊中の義母がボソッと「松茸なんか匂いだけや」と否定した。
 おおっ! さすが生駒谷の山持ち地主の娘。山で採ってきた「シメジやイグチ、ハツタケ、ナメコ、自然のシイタケの方が美味しかった・・ 松茸なんかほとんど食べなんだ」との発言には重みがある。
 各種きのこは、そのまま鍋に入れたり、きのこご飯にしたらしい。

ネットから
 「そしたら、松茸はどうしてたん」と聞いたところ、「松茸は親類や知り合いに配って歩いてた」とのこと。 $■△*#¥●???
 「やっぱり昔から松茸は値打ちが認められていたんや」と夫婦で笑いあったが、義母の言う「味は他のきのこの方が美味しかった」という評価は、世間の金銭的雑音がない分正確なのだろう。

 「魚なんか滅多に食べなんだ 畑や山で採れるもんばっかり食べていた」という、こんな自給自足の生活が私の親の子供時分まであったなんて、私の子供たちにだって、もう歴史教科書の世界だろう。
 この貴重な経験を聞き残しておこうとするのだが、義母はいつも「別に何もありません」と答えるだけである。
 考えてみると、その時代の普通の農家で普通に農業をしていたのであって、本人にとっては何の珍しくもない生活を積み重ねてきただけだ。それらを知らない我々の世代以降のほうが、日本民族の中で突出して珍しい世代なのかもしれない。

2011年10月14日金曜日

カーネーションの時代

ネットから
 NHKの朝ドラで(岸和田高女)の女学生の糸子(小篠綾子)は昭和3年頃(15歳?)にパッチ屋のミシンを見て「これこそウチのだんじりや」と腰を抜かさんばかりに驚いていたが、私が今日母に尋ねたところ、堺高女では大正15年に学校にミシンが入り洋裁の授業が始まっていたという。(記憶違いがあるかも知れないが)

 そして同じ頃、驚くことに私の祖母(母の母)は月賦でミシンを買っていた。つまり家にミシンがあったのだ。
 赤貧の母子家庭でどう金策したのかは摩訶不思議なのだが、もともとは大阪の地主のお嬢さんで、大倉喜七郎の片腕であった夫と結婚し、上海でダンスパーティー三昧という浮世離れをした御伽噺のような人であったので、御伽噺のような買い物をしたのだろう。(当時は夫の早世などもあり赤貧だったのだが)
 その娘であった母は、淀屋橋にあった洋裁学校に行きたくて行きたくて仕方がなかったが、もちろん月謝が工面できず、あとは家で本を見ての独学で、製図をして大中小の型紙を作って、その型紙を基に形式上は祖母が、事実上は母がデパート勤めと併せて洋装店らしきものを始めたと言う。「糸子」がパッチ屋で働き始めたか、その少し前のことである。
 母が、そのように昭和の初っ端に白木屋デパートや松阪屋で子供服の販売とミシンを担当したモダンガールだったことは5月14日のブログに記述した。
 以上は・・・、朝ドラの時代に、祖母(曾祖母)がそんなふうであったことを、私の子や孫のために記録しただけである。
 末っ子である息子たる私は、母親の昔話など、ず~っと(全く)聞かずに過ごしてきたので、こんなつまらない昔話を「これも近代史か」と、この年になって少し楽しんでいる。

2011年10月12日水曜日

88年目のオリンピック

 「大正12年。88年前の関東大震災の折には堺市の大小路でも大きく揺れた」と母が言った時、きっと年老いた頭の中で情報がごっちゃになっているのだろうと思って聞き流していたが、3月11日に奈良市内のビルの4階で自分が体験してみて、母の言葉を疑ったことを反省した。

 今日は母の施設の運動会だった。
 体力がもたないので母が参加したのは1時間あまりだが、玉入れ2回とパン喰い競争に参加した。
 驚いたことは、本番になると見違えるように「勝ちに行く」母のガッツだった。
 「老人ホームのお遊び」なんかにしておけるものか!という気迫だった。
 これにはほんとうに驚いた。
 5月28日のブログに書いたが、大正12年、第6回極東オリンピック予選に出場した魂は101まで健在だったのだ。
 母よ、今日の貴方には、88年前の人見絹枝さんに劣らないオーラが出ていたよ。

2011年10月10日月曜日

ちょっと 聞いちゃってよ

 NHK朝ドラ「カーネーション」の泉南(岸和田)弁が聞いていて楽しい。
ネットから
 和歌山弁の「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」となる「ざだら変換」と言われる訛り(?)は有名で、かつての同僚(和歌山人)が体のことを「かだら」と言うのを本人に指摘すると、「訛ってなんかないよ。体のことはキチンとかだらて言うてるよ」と否定するのが可笑しかった。
 泉南は、中世から紀州・根来寺の荘園等もありその影響なのか、それとも泉南訛りが紀州に伝播して進化したのか判らないが、泉南(岸和田)弁は和歌山弁とよく似た訛りである。

 が、訛り(?)などと言うと低級なもののように思われるが、所詮は標準語なる人造語に対する「非標準」であり、東京に住んでいたとき、歴としたインテリである東京人の先輩は潮干狩りのことを「ひおしがり」と言って、私が指摘しても「しおひがり」とは発音できなかった

 このの変換は全国に見られるが、大阪の七をひち、質屋をひちやと言って、看板にも大きく「ヒチ」と書いてある(あった)のに止めを刺す。   
 上方唄〔松づくし〕に「七本目には姫小松」とあり、これは「ひち」と読まなければ成り立たないし、もちろん七味唐辛子はひちみである。

 よって、京阪電車に乗るたびに七条駅のふりがなが「しちじょう」であり、社内アナウンスも「しちじょう」であることに、「この関西弁の裏切り者め」と強烈な抵抗を覚えるのである。
 南海電車は、関空開港までは「んしゃりょう せきしていの とっきゅうさんで ごいます」(全車両座席指定の特急サザンでございます)とアナウンスされていたと愉快に語り継がれている。(ほんまはそれほどでもなかったが)

 そこで、私の育った堺旧市街は、そもそも大和川が1704年に付け替えられるまでは住吉と地続きの、それこそ摂津、和泉、河内の「堺」であったので、大阪弁と泉州弁の微妙な位置にあり、正直なところ「泉南(岸和田)弁や和歌山弁といっしょにせんといて」といった気分が支配的であるが、思い出してみると、堺や出島の港にたくさん上がっていた猿頬貝(さるぼうがい)(小ぶりの赤貝のような貝)のことを、サボロとかサブロガイと言っていたような記憶が(昔のことゆえ自信はないが)よみがえってきた。
 固有名詞のことではあるが、記憶が正しければ、これは「かだら」と同じ文化圏の影響かもしれない。

 確かに、同じ「ちぬの海」である。

2011年10月8日土曜日

秋の声

 季語に「秋の声」というのがあるが、穏やかな秋の日中に、まるで耳鳴りではなかろうかと疑わせほどあちこちの木や草の奥から聞こえてくるカネタタキのチッチッチッチッチッチッチとの単調な鳴き声こそ、「秋の声」にふさわしく感じられる。

 遠い昔、ハイキングの折に手折ってきたサルトリイバラが庭にあるせいか、時々ルリタテハもやってきて目の方も楽しませてくれる。
 そんな時「ルリタテハ、ルリタテハ、カメラ、カメラ」とドタバタするうちに何処かに移って行ってしまっているのを、妻は冷ややかな目で無視しているのも、我が家の「秋の声」かも知れない。
 
 さて、非常に身近な場所にスズメバチが巣を作った。
 蜂の子を食べたい気もするが、ここは冷静な判断が必要だ。
 日本では、動物による死亡のトップがスズメバチであり、よくニュースに出てくる「熊が出た!」よりも多いのである。しばし悩んでいる。
 見たところオオスズメバチではなく物分りがよさそうだがそれほど親しくないので判らない。
 それよりも、表面には門番が居て入館者を生真面目にチェックしているのに感心してしまう。

 虫の事を書いているうちに思い出したが、「虫とる子だけが生き残る」(小学館101新書)は大好きな本の一つで皆様方にもお勧めしたい。理由は・・おもしろいから。

2011年10月5日水曜日

記紀に呪われた堺

 昨日、堺市博物館に行くと、受付の係員が、他の高齢者とおぼしき人には「65歳以上ですか?」と尋ねていたのに、私には全く聞かずに観覧料を要求してきたので少し気分がよかった。

 須恵器の時代、古墳時代、中世等々と歴史の重さが断然違う堺だけあって大方の展示には満足したが、例によって大仙陵古墳をほとんど文句なしで仁徳天皇陵と大々的に表示しているのには疑問が残った。
 なぜなら、別の場所の解説でははっきりと古墳の年代順を上石津ミサンザイ→大仙陵と書いて展示してあり、これが上石津ミサンザイ(履中天皇陵)→大仙陵(仁徳天皇陵)なら親子(仁徳・履中)が逆転しているのは明らかだ。付言すれば田出井山古墳(反正天皇陵)もヤマト王権の盟主墓としては貧弱であり、土師ニサンザイ古墳の方が天皇陵というのが定説だと思うのだが・・・、
 この博物館には、「伝仁徳天皇陵」と小さく付記するに留める程度の理性を求めたい。記紀の呪いは政令指定都市の博物館をも金縛りにしているようだ。
 
ネットから
 帰ってみると、堺の同窓生から「たまには堺に帰っておいで」と、文化財特別公開その他の資料が届いていた。ちょっとした以心伝心のような・・・今日は何という日だったのだろう。
 幼馴染はありがたいものである。

 遥か小さい時分の匂いや音の記憶は大きく、京都の南部、奈良の北部にも「ふとん太鼓」があるのだが、その太鼓のリズムが微妙に異なって馴染めない。おかしなものだ。

2011年10月3日月曜日

銀杏を味わいました

 同じものを食べても自ら採取したものを食べるとどうしてこんなに美味しいのだろう。・・・・偉そうに採取などと言ってみたが、実態は拾ってきただけの銀杏でも・・・・
 昨日のブログの銀杏を、ペンチで殻を破り、ぬるま湯でふやかした薄皮を、ぬるま湯で皺のたった指で剥がして、そして茹でたのが左の写真。
 夕食に少し戴いて、後は冷凍保存をした。
 しばらくの間、ちょっぴり豪華な茶碗蒸やオダマキが楽しめそうだ。オダマキは冬の我が家の人気料理である。
 妻は「おせち料理まで残るやろか」と算盤を弾いているが多分残らないだろう。
 我が家(夫婦)では「クセもなく美味しいなあ」と言っているが、世間では結構「好きでない」という方がおられるのは何故だろう。まあ多様な意見が尊重されるのは好いことだ。

 さて、銀杏は御堂筋もよいけれど、寺社の境内がよく似合う。奈良県御所市の一言主神社の「乳垂れ銀杏」は樹齢1200年と立派であるが、それでもこの銀杏は大和朝廷に先行するその地の葛城王朝を見ていないのが惜しい。
 奈良も斑鳩も明日香もよいけれど、古代史のタイムカプセルのような葛城は一見に値する。住民の皆さまには申し訳ないが、本格的な発掘調査が終了するまでは無謀な開発が強行されないことを祈っている。

2011年10月2日日曜日

銀杏黄葉(いちょうもみじ)

 葉っぱの形から樹木の名前を検索する、保育社が出版した「樹木」①②という本があるが、この本には「銀杏(いちょう)」が載っていない。
 こういうのを問答無用というのだろうか。
 蛇足ながら、主婦と生活社の出版した庭木事典1,2,3にも掲載はない。その理由は判る様で判らない。「判らないという奴が判らない」というのが世間なるものの「常識」とされているのだろう。

 さて、我が家のすぐ近くの幹線道路の街路樹が銀杏であるが、黄葉が進むと他の道路よりもこの道路が別世界のように明るくなる。車で走っていても歩道橋から見渡してみても同様に素晴らしい。御堂筋を持ち出すまでもなく銀杏は街路樹のホームラン王(なんと懐かしい)である。
 その上に、何本かの雌株の木にはギンナンのおまけ付きだが、雌株の木の目の前の家のお方はさぞや閉口していることだろう。

 お察しのとおり、指示待ち人間であることを嫌う私たち夫婦は、よって、町内の公害対策の清掃を兼ねて迅速に行動し、その代わり少しばかりの自然のお恵みを労働の対価として御裾分けして頂いた。

 それを2日間水に浸けておいて果肉を「掃除」したのが右の写真である。
 庭先で「掃除」をしたのだが、ご近所から叱られないかと心配したほどの悪臭だったが、小泉武夫先生や椎名誠氏から教わった「くさいはうまい」という呪文を「くさいはうまい」「くさいはうまい」と唱えながら「掃除」を終えて只今乾燥中である。